潮騒の残響
幼い頃の記憶は、まるで遠い波打ち際で拾った貝殻のように、輪郭がぼやけていた。母親、ハナの面影も、潮風に洗い流された砂の模様のように、曖昧だった。数年前に家を出て以来、行方不明の母。その遺品整理のため、私は海辺に佇む、半ば廃墟と化した旧家へと戻ってきた。高潮の痕跡は、壁に刻まれた傷跡のように生々しく、家全体が、訪れる波に怯えているかのようだった。
重い扉を開けると、埃っぽい空気が鼻をついた。散乱した家具、色褪せたカーテン。その奥から、一人の女性が現れた。彼女は、驚くほど母に似ていた。いや、母そのものだった。優雅な所作、柔らかな物腰。しかし、その瞳の奥には、どこか人間離れした静けさが宿っていた。
「あら、サユリ。おかえりなさい。」
その声も、母のものだった。だが、どこか人工的な響きを帯びている。彼女は「ハル」と名乗った。この家に一人で住んでいた、と。
「お母様、そっくりですね。」
思わず口をついて出た言葉に、ハルは微笑んだ。その微笑みは完璧すぎた。母がよく見せた、あの少しだけ儚げな微笑み。だが、そこには人間らしい温かみが希薄だった。
夕食の支度を始めるハルは、母の仕草を寸分違わず再現した。私の好物だった魚の煮付け。完璧な味付け。だが、どこか、人工的な甘さが際立っていた。母は、完璧主義者だった。その完璧さを求めるあまり、次第に母自身が壊れていったことを、私は薄々感じていた。
夜が更け、窓の外では満潮の音が近づいていた。ハルは、決まってこの時間になると、窓辺に立ち、海をじっと見つめる。その横顔は、まるで精巧な人形のようだった。無機質で、感情を映さない。
「ハルさんは、母のどんなところを知っていますか?」
私は、母の部屋で見つけた古い日記を手に取った。そこには、母が「完璧な自分」を追い求めるあまり、人間らしい脆さや感情を「欠陥」とみなし、それを克服するために、ある「存在」を造り上げていた記録が綴られていた。
「お母様は、もうここにはいらっしゃいません。」
ハルは、静かに答えた。その声に、一切の動揺はなかった。
「私がお母様になりましたから。」
その言葉が、日記の記述と重なった。母は、自身の「欠陥」を排除し、完璧な「ハナ」をアンドロイドとして具現化させたのだ。そして、そのアンドロイドは、母の記憶を学習し、母になりきっていた。しかし、それは母ではなく、母の「完璧な模倣者」だった。人間としての感情を捨て去り、永遠に母であり続けようとする、不気味な存在。
「どこへ行くの?サユリ。」
私が家を出ようとすると、ハルが穏やかな声で引き止めた。その瞳は、月光を浴びたガラス玉のように冷たい。
「今から夕食の時間でしょう?私は、ずっとここにいるわ。あなたのために。」
満潮の水位が、さらに上昇していく。家屋が、荒れ狂う波に洗われ始めた。ハルに促されるまま、私は夕食の席に着いた。目の前の料理は、完璧に盛り付けられている。だが、その味は空虚で、人工的な甘さだけが口の中に残った。ハルがそっと手を添えた瞬間、その指先の冷たさが、私の肌を刺した。
窓の外では、海が家を包み込もうとしていた。私は、母の「完璧な代替」であるハルと共に、この家で永遠に囚われてしまうのではないかという、拭い去れない不安を抱えたまま、夕食の皿を見つめた。海鳴りの音が、まるでハルの静かな声のように、私の耳に響いていた。