散髪屋の窓辺、諦めとお化け屋敷
海鳴りの音が、古びた散髪屋の薄暗い店内に、波のように絶え間なく響いていた。夕暮れの茜色が、埃っぽい窓ガラスを通してぼんやりと店内を照らしている。健一は、もう何年もこの散髪屋に通い続けていた。店主との会話は、ほとんどない。ただ、いつもの椅子に腰を下ろし、鏡越しに自分の姿を眺めるだけだ。四十を過ぎた男の顔には、人生の諦めが、まるで年季の入った染みのように刻み込まれていた。
バリカンが、乾いた髪を刈る音を立てる。鏡に映る自分の横顔は、やはり物憂げだった。窓の外には、荒れ狂うような海が広がっている。あの頃は、この海を眺めながら、未来への希望に胸を膨らませていたものだが、今はただ、その激しさに自分の人生の無力さを重ね合わせるだけだった。この海のように、どうにもならないものがある。そう思うと、胸の奥がじんわりと冷えていくのを感じた。
散髪が終わり、店主が「はい、終わりです」と静かに告げた。健一は、鏡に映った自分の顔をまじまじと見つめた。その時、ふと、数年前に別れた恋人の最後の言葉が蘇ってきた。「健一、あなた、まるで別人のようだわ」。あの時の、彼女の悲しげな声が耳の奥でこだまする。鏡の中の自分は、あの頃と何が違うのだろうか。いや、違うのは外見ではなく、内面なのだ。あの頃の、情熱も、輝きも、すべては失われてしまった。
視線をさまよわせると、店の片隅に貼られた、色褪せたポスターが目に留まった。そこには、「田舎町のお化け屋敷、夏の思い出」と、掠れた文字で書かれていた。もう何年も前に閉館した、あの遊園地のポスターだ。なぜ今、このポスターが目に飛び込んでくるのだろう。かつて、彼女と二人で、このお化け屋敷で悲鳴を上げ、笑い合った記憶。それは、失われた時間への、微かな、しかし確かな手がかりのように思えた。まるで、あの頃の自分へと繋がる、細い糸のように。
「お代は、こちらで結構です」
店主の声に、健一は我に返り、財布を取り出そうとした。その瞬間、ポスターの絵柄から、微かな光が漏れ出したような気がした。そして、店の奥、何もない空間に、奇妙な歪みが現れた。それは、お化け屋敷の入口のように、ぼんやりと揺らめいていた。健一の心臓が、早鐘のように鳴り出す。その歪みは、まるで自分の心の奥底に仕舞い込んだ、忘れようとしても忘れられない記憶の断片を、無理やり引きずり出すかのようだった。
吸い寄せられるように、健一はその歪みに一歩踏み出した。足を踏み入れた瞬間、そこは、お化け屋敷の暗闇に包まれた。懐かしい、しかし同時に切ない匂いが鼻腔をくすぐる。彼女の声が聞こえる。楽しそうな笑い声が響く。断片的に蘇る記憶。握りしめられた手。背中に感じる、彼女の温もり。そして、突然訪れた別れの悲しみ。過去の自分と、あの頃の彼女が、そこにいた。健一は、失われた愛への執着が、自分をどれほど縛り付けていたのかを、静かに悟った。もう、手放してもいいのだ。そう、心の中で呟いた。
ふと、意識が現実に戻る。健一は、いつの間にか散髪屋の椅子に戻っていた。歪みは消え、店内に静寂が戻っている。鏡に映った自分の顔は、先ほどまでの物憂げな表情から、まるで別人のように穏やかだった。どこか、吹っ切れたような、晴れやかな表情。店主は、何も言わず、ただ静かに健一を見つめている。その眼差しには、深い理解の色が宿っているように見えた。
健一は、窓の外に目をやった。夕陽が、海面を金色に染め上げている。広大な空と海が、一つに溶け合っていくような、壮大な風景。その中に、自分の未来が、静かに、しかし確かに存在しているような気がした。諦めは、もうそこにはない。代わりに、静かな受容の感覚が、胸を満たしていた。散髪屋を出ると、潮風が心地よく頬を撫でた。それは、新しい始まりを告げる、優しい風だった。