窓辺の約束

数週間前のことだった。海(うみ)は、湊が逝ってしまった部屋の窓辺に立っていた。窓の外に広がるのは、いつもと変わらぬ、どこまでも青い海。湊は、この部屋から海を眺めるのが好きだった。「まるで、海に溶けてしまったみたいだね」そう囁く町の人々の声が、海(うみ)の耳に届く。その言葉に、彼女の胸は一層締め付けられた。原因不明の病。彼だけが、潮の香りを人一倍強く感じていたという噂もあった。海(うみ)は、湊と過ごした楽しかった日々を思い出し、胸が締め付けられる。あの頃の、眩しい笑顔が目に焼き付いて離れない。

湊の部屋の、埃をかぶった棚。海(うみ)は、彼との思い出の品を、一つ一つ丁寧に整理していた。一枚の写真。そして、小さな貝殻がたくさん入った小瓶。写真は、幼い頃の二人、海辺のカヤックの上で撮ったものだ。眩しい太陽の下、無邪気に笑う自分と、少しだけはにかんだ湊。湊が、あの時言った言葉が蘇る。「いつか、このカヤックで、一番遠くまで行こう」。それは、二人だけの、ささやかな約束。しかし、その約束を果たす前に、彼は静かに海へと還ってしまった。果たせぬ約束を抱えたままの自分を、海(うみ)は責める。「私だけ、ここに残された…」と、早口に呟いた。まるで、舞台のセリフのように、その言葉は空虚に響いた。

ある夜のことだった。いつものように湊の部屋の窓辺で、海(うみ)はうたた寝をしてしまった。夢の中、彼女は古い桟橋に立っていた。そこには、カヤックに乗る湊の姿が。海(うみ)が、慌てて駆け寄ると、湊は、あの頃と変わらぬ優しい笑顔で、彼女を見つめた。「大丈夫。約束は、形を変えて、ずっとそこにあるよ」。そう言って、彼は手に持っていた小瓶を、静かに海に投げ入れた。「心の準備ができたら、いつでも行ける」。小瓶は、波に揺られながら、ゆっくりと沖へと流れていく。夢だと分かっていても、その声は、確かに海(うみ)の心に響いた。それは、まるで、海からの呼び声のようだった。

目を覚ました海(うみ)の目に映ったのは、朝焼けに染まる、茜色の空。不思議と、胸の奥に澱んでいた重いものが、すっと軽くなっているのを感じた。湊の部屋の窓から、流れていった小瓶が見えるような気がした。彼はもう、この世界にはいない。けれど、彼の想いは、この広大な海と共に、確かに生きている。海(うみ)は、窓に向かって、少し芝居がかった、しかし確かな声で呟いた。「ありがとう、湊。約束、ちゃんと覚えているから」

数日後、海(うみ)は一人、カヤックに乗っていた。湊との約束を果たすため、一人で、海へ漕ぎ出す。最初は、広すぎる海に、少しだけ怖さを感じた。しかし、湊の言葉を胸に、彼女は力強くパドルを漕いだ。カヤックは、ゆっくりと、しかし着実に、沖へと進んでいく。遠くの海上で、ふと、あの小瓶が波間に揺れるのが見えた気がした。それは、湊の想いが、確かに届いた証。切ないけれど、不思議と温かい。海(うみ)は、湊の分まで、この海を精一杯楽しもうと決意する。新たな一歩を踏み出す彼女の姿は、どこか劇的な余韻を残していた。まるで、物語の、次の幕が開いたかのようだった。

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