体育倉庫の精霊

体育館の埃っぽい空気に、佐伯陽菜はいつも息を潜めた。人知れず、彼女には秘密があった。幼い頃から、体育館の精霊の声が聞こえるのだ。それは、陽菜が一人で抱えきれない悩みを抱えた時、そっと耳元に囁きかけ、解決の糸口を与えてくれる、唯一の救いの声だった。部活でミスをして落ち込んだ時、友人との些細な諍いで心が揺れた時、陽菜は誰にも見つからないよう、体育館の隅に隠れて精霊に縋った。精霊の声は、時折、決まった言葉を繰り返す。そして、陽菜が深く沈み込んでいる時にだけ、より鮮明に響く。担当の黒田先生の声に、どこか似ている気がする。そんな疑念が頭をよぎるたび、陽菜は「まさか」と強く打ち消した。先生は、生徒からの評判も良い、穏やかな体育教師だ。そんなはずがない。陽菜は、精霊の言葉だけを信じたかった。

しかし、その信じていたものが、静かに、しかし確実に崩れ始めた。クラスメイトからの些細な意地悪が、次第にいじめへとエスカレートしていったのだ。学校へ行くことが、陽菜にとって耐え難い苦痛となった。毎日のように、彼女は体育館に駆け込んだ。冷たい床に座り込み、精霊に助けを求めた。「どうしたらいいの…?」声は、陽菜を慰めるかのように囁いた。「仕返しをしなさい。あの古い倉庫に、きっと役に立つものがあるわ」

体育館の倉庫。埃とカビの匂いが充満する、薄暗い空間。精霊の言葉に背中を押されるように、陽菜は奥へと進んだ。錆びついた道具箱の奥に、古びたナイフが隠されていた。刃には鈍い光が宿り、不吉な予感を漂わせる。陽菜は、精霊の言葉を信じたい気持ちと、ナイフを手にすることへの罪悪感で激しく葛藤した。「先生に知られたら、どうなるんだろう…」不安が胸を締め付ける。だが、「精霊が、私を守ってくれる」と自分に言い聞かせ、ナイフを体操着のポケットに隠した。一方、黒田先生は、陽菜の様子が以前と違うことに気づいていた。授業中も、どこか上の空で、顔色も優れない。体育館に頻繁に出入りし、一人で過ごす時間が増えた彼女を、先生は静かに見守るようになった。

その日は、最悪の形で訪れた。放課後、陽菜はいじめっ子たちに呼び出され、人気のない体育館の裏へと連れ出された。囲まれ、罵声を浴びせられる。絶体絶命のピンチ。陽菜は、ポケットの中のナイフを握りしめた。精霊の声が、耳元で囁く。「今よ、陽菜!」震える手でナイフを構え、振り向いた、その時。そこにいたのは、いじめっ子たちではなかった。静かに、こちらを見つめる黒田先生が立っていた。先生は、陽菜が「精霊」と信じていた声が、実は自分自身の声であったことを、静かに告げた。「陽菜、君が聞いているのは、私の声なんだよ」

先生は、陽菜の孤独な心につけ込んだのだと説明した。彼女が誰にも理解されず、一人で苦しんでいることに気づき、自分だけが彼女を支えられる特別な存在だと思い込ませることで、陽菜を自分に依存させようとしていたのだ。「君を孤独から救いたかっただけなんだ」先生の声には、歪んだ愛情と、罪悪感が滲んでいた。陽菜が「精霊」と呼んでいたのは、先生が体育館で密かに一人で話していた声であり、それを陽菜が聞き間違えていたのだと。先生は、陽菜の抱える孤独を理解し、寄り添うつもりだった。しかし、いつの間にか、その優しさは彼女を支配するための歪んだ形へと変貌していたのだと、先生自身も自覚していた。

陽菜は、全身から力が抜けるのを感じた。今まで信じてきた「精霊」の正体が、自分を操ろうとしていた先生の声だったこと。先生が、陽菜の純粋な心を利用して、自分だけの「特別な生徒」を作り上げようとしていたこと。その事実に、陽菜は吐き気を覚えた。「もう、君に話しかけることはない」先生は、そう静かに告げると、陽菜を一人、冷たい体育館に残して去っていった。

体育館に響くのは、陽菜の嗚咽だけだった。誰にも理解されない孤独。そして、自分が操られていたという事実。陽菜は、その重みに打ちのめされ、ただ立ち尽くすしかなかった。精霊の声は、もう聞こえない。残されたのは、ひんやりとした体育館の空気と、底なしの絶望だけだった。

ふと、体育館の隅から、まるで風の囁きのような、微かな声が聞こえた気がした。それは精霊の声でも、先生の声でもなく、陽菜自身の心の奥底から響く、依存の残滓のような…。

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