満ちるための欠片

暦の上では春が立つというのに、夜気は冬の厳しさを手放そうとはしなかった。節分の深夜。広大な屋敷の縁側で、私、朔(さく)はひとり、炒り豆の入った升を抱えていた。

「鬼は外、福は内」

幼い頃から繰り返してきた、空虚な呪文。私にとっての『鬼』とは、忘れようと努めてきた過去の記憶そのものだった。そして、それを封じ込めるための場所が、庭の隅に忘れられたように佇む古い蔵だった。あそこは忘却のための聖域であり、同時に過去に囚われる牢獄でもある。その矛盾に心が引き裂かれそうになるのを感じながら、私はじっと蔵の闇を見つめていた。

升を握る手に力を込める。「鬼は外」。そう呟き、腕を振りかぶろうとした、その瞬間だった。

——ごとん。

乾いた音が、静寂を破った。音源は、蔵だ。内側から、誰かが扉を叩いている。幻聴だろうか。いや、違う。それは確かに、忘却の淵からの呼び声だった。開けるな、と理性が叫ぶ。だが、心の奥底で疼く渇望が、それに抗う。私はまるで何かに引き寄せられるように立ち上がり、草履を履いて庭に下りた。

何年も触れていない蔵の扉は、凍てついたように冷たい。錆びた閂(かんぬき)に手をかけ、力を込めると、軋むような悲鳴を上げて扉がゆっくりと開いた。

黴と埃の匂いに混じって、ふと、忘れたはずの冬の日の匂いがした。月光が埃っぽい闇を斜めに切り裂き、その中に浮かび上がった人影に、私は息を呑んだ。

そこに、男がひとり座っていた。年の頃は二十歳ほど。私自身の、若い頃の姿と瓜二つだった。その肩には、失われた時間の光が埃のように静かに積もっている。

「今年も追い出すのか」

男が、掠れた声で言った。挑発するような、それでいてどこか悲しげな響きだった。

「……鬼め」

私は呻くように呟き、再び升を構えた。この男こそが、私の心を苛む鬼なのだ。これを追い出せば、私はきっと救われる。そう信じてきたはずだった。

豆を投げつけようとした私を、男の静かな声が縫い止めた。

「その鬼を捨てて、お前は福で満たされたのか?」

言葉が、氷の刃となって胸に突き刺さる。そうだ、私は毎年この『鬼』を追い出してきた。だが、心は満たされるどころか、年々空虚になっていくばかりではなかったか。記憶を切り捨てるたびに、魂の一部が削り取られていくような感覚。この男は、追い出すべき異物などではない。失われた私自身の『欠片』なのだ。

握りしめていた指から力が抜ける。ぱらぱらと、乾いた音を立てて豆が手からこぼれ落ちた。床の上を転がる豆は、まるで失われた時間のかけらのように、月光を弾いて静かに散らばっていった。

「君は……私、だったんだな」

絞り出した告白に、男は何も答えなかった。ただ、ほんの少しだけ口の端を上げ、静かに微笑んだように見えた。次の瞬間、その輪郭がゆらりと揺らぎ、まるで陽炎のように闇の中へと溶けて消えていった。

蔵を出た私は、もう豆を撒くことはなかった。ただ静かに蔵の扉を閉める。鍵はかけない。そこに『在る』ことを、ただ認める。見上げると、空には冴え冴えとした冬の月が浮かんでいた。その清澄な光は、かつて私を苛んだ記憶の輪郭を、今はただ優しく撫でているようだった。

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