勇者のためのLANケーブル

深夜、健太はいつものようにパソコンの前に座っていた。ディスプレイに映し出されるのは、色鮮やかなモンスターが闊歩するオンラインゲームの世界。彼はそこで「勇者」となり、数多の敵を討伐していた。現実世界では、カフェで注文を間違えられただけで顔が赤くなるような、些細な出来事にも動揺してしまう。そんな自分から逃れるように、彼は仮想空間でだけ、自分に嘘偽りなく強さを発揮していた。しかし、満たされることのない漠然とした虚しさが、いつも心の片隅に澱のように溜まっていた。ふと、スマートフォンの画面が光る。幼馴染のアキラからだった。「助けてくれ!プロジェクトがヤバいんだ!」

アキラのプロジェクト。それは、彼が情熱を注いでいた地域活性化のためのオンラインプラットフォーム開発だった。しかし、サーバーの接続トラブルという、まさに致命的な問題に直面し、重要なプレゼンを目前に控えて、絶望の淵に立たされていた。アキラが健太に頼るのは、彼の卓越したLAN構築スキルと、どんな難解な問題も解決に導く問題解決能力。それは、健太が現実世界では決して得意としない、人との関わりから逃げがちな自分自身との、大きなギャップでもあった。アキラからの必死の訴えは、健太の胸に重くのしかかる。対人恐怖症気味な自分は、本当にアキラの期待に応えられるのだろうか。過去に、些細な誤解から友人を傷つけてしまった経験が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。再び誰かを失望させてしまうのではないか、という恐怖が、彼の全身を冷たく包み込んだ。

「俺にできること、全部やるよ」

アキラからの切羽詰まった声と、ゲームの「勇者」として誰かを救うことへの、密かな憧れ。その二つが、健太の迷いを断ち切った。深夜、彼はアキラのオフィスへと向かう。そこには、疲労の色を隠せないアキラと、混乱した様子のスタッフたちがいた。健太は、慣れた手つきでLANケーブルを繋ぎ、絡み合った複雑な配線を解きほぐしていく。パソコンの奥深い設定画面を睨みつけ、まるでゲームのダンジョンに挑む「勇者」のように、彼は自身の集中力を極限まで高めていった。アキラたちの期待という「見えない重圧」が、彼の指先を微かに震わせたが、健太はそれを打ち消すように、ただ黙々と作業に没頭した。

プレゼン開始まで、あとわずか。健太は最後の難関、未知のプロトコルとの接続に苦戦していた。それは、かつて彼が開発中に遭遇し、原因不明のまま諦めてしまった、あの忌まわしいバグに酷似していた。アキラは、健太を信じ、スタッフに冷静な指示を出しながら、場を繋いでいた。健太は、ゲームで培った「決して諦めない心」、アキラへの友情、そして「今度こそ、誰かの役に立ちたい」という、これまで内に秘めていた強い意志を胸に、最後のコードを打ち込んだ。画面に、緑色の「接続完了」という文字が表示された瞬間、オフィス中に歓声が響き渡った。アキラは、健太の肩を力強く叩き、「ありがとう、健太!お前は俺たちの勇者だ!」と、満面の笑みで叫んだ。

プレゼンは成功し、プロジェクトは再び勢いを取り戻した。健太は、アキラたちの喜びに沸く姿を見て、これまで感じたことのない、温かい達成感に包まれていた。彼は、現実世界でも、確かに「勇者」になれたのだと実感していた。アキラからの「ありがとう」という言葉は、彼にとって、ゲームの世界で得られるどんな「報酬」よりも、遥かに価値のあるものだった。帰り道、健太は夜空を見上げた。ゲームの中の勇者も、現実の勇者も、誰かを支え、繋ぐために、見えない「LANケーブル」を張り巡らせているのかもしれない。そして、その「LANケーブル」は、物理的なものだけでなく、友情や信頼といった、目には見えない絆でもあるのだと。ほろ苦さと共に、確かな温かさが胸に広がる。彼は、もう一度、誰かのために「コードを書こう」と、静かに決意を固めた。

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