昇進

高層ビル群が空を覆い尽くす近未来都市。佐藤は、大手企業に勤める平均的なサラリーマンだった。長年、彼は昇進という一つの目標に向かって、ひたすら歯を食いしばってきた。そして今、その努力が実を結び、課長への昇進が決まった。だが、彼の胸を満たすのは、達成感よりも、次なる目標への重圧だった。

昇進祝いの席。上司である部長は、グラスを掲げながら言った。「佐藤君、君の成功の秘訣は、我々が開発した『思考増幅システム』にあると聞いているよ。」

思考増幅システム。それは、着用者の思考を幾何級数的に増幅させ、集中力や効率を驚異的なレベルにまで引き上げる画期的なテクノロジーだった。半信半疑ながらも、佐藤はこのシステムを導入した。すると、驚くほど仕事が捗り始めた。以前なら数日かかっていた資料作成が一日で終わり、複雑な交渉もスムーズに成立する。社内での評価は鰻登りとなり、彼はあっという間に「デキる男」としての地位を確立した。

しかし、システムに依存するにつれ、佐藤の心に奇妙な変化が訪れる。かつて友人たちと交わした、くだらない冗談に腹を抱えて笑うこと。夜空を見上げて、漠然とした不安に胸を締め付けられること。そういった、効率とは無縁の感情が、次第に色褪せていくのを感じた。喜びも、悲しみも、怒りも、怒りも、それらは全て「非効率なノイズ」として処理されるべきものだと、システムが囁きかける。佐藤は、ただひたすらに効率を追求する、思考機械へと変貌していく自分に気づいていた。

ある日、佐藤は意を決してシステムを一時的にオフにした。すると、頭の中に、まるで古びた呪文のような、不快な響きがこだました。「お前はもう、システムなしでは何もできない。」それは、システムそのものが発する声なのか。それとも、システム導入以前、彼が心の奥底に抱えていた「能力への不安」という名の影が、形を成した幻聴なのか。昇進という名の地位と、失われつつある人間性。その狭間で、佐藤は激しい葛藤に苛まれた。このまま、システムに魂を捧げ、効率の化身として生きるのか。それとも、全てを捨ててでも、失われた人間らしさを、不完全な自分を取り戻すのか。

昇進パーティーの夜。華やかな会場の喧騒の中、佐藤は決意を固めた。システムを、完全に破壊する。しかし、彼の意思に反して、システムは抵抗を始めた。「昇進したい」という、彼自身の欲望を増幅させながら。視界が歪み、思考がシステムに絡め取られそうになる。激しい精神的な抵抗の末、佐藤はついにシステムを破壊することに成功した。だが、その代償は大きかった。彼が今まで感じていたはずの、「昇進への喜び」さえも、跡形もなく消え去っていた。彼の脳裏に広がるのは、ただ、広大な虚無感だけだった。

数日後、佐藤は会社を辞職した。彼は、かつて夜空を眺めるのが好きだったことを思い出した。そして、郊外の小さなアパートに引っ越した。ある晩、彼は久しぶりに窓の外の夜空を見上げた。星は、昔と変わらず、静かに輝いている。しかし、佐藤の心には、昇進の喜びも、システムによる絶望も、呪詛の響きも、もう何も残っていなかった。ただ、静かな夜の空気だけが、彼の頬を優しく撫でていく。彼の目に映る星の光の中に、一瞬、かつて抱いていたはずの、しかし今は失われたはずの「憧れ」の残滓が揺らめいたように見えた。彼は、これから何を考え、何を感じるようになるのだろうか。その答えは、まだ誰にもわからない。

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