湯けむりと酌み交わす、もう一杯
大学時代の先輩、田中さんからの突然の誘いで、俺、佐藤健太は箱根の古びた温泉旅館にいた。「なんで今さら、俺を誘うんですか?」とは思ったものの、「懐かしい話でもしようか」という言葉に流され、渋々頷いたのだ。着いた宿は、いかにも古風といった佇まいで、廊下を歩けばギシギシと床が軋む音が響く。浴衣に着替えた俺たちは、部屋に案内された。部屋には、湯気の立つ鍋と、冷えた日本酒が用意されている。久しぶりの先輩との再会に、内心ドキドキしながらも、いつもの調子で軽口を叩き始めた。「先輩、昔はよく俺のこと『健太、お前は将来、日本一のダメ人間になるぞ!』って言ってましたよね?まさか、あの時本気でそう思ってたんじゃ?」俺は、からかうような口調で言った。その言葉は、俺が最近仕事でミスを連発し、上司に『君は本当にダメだな』とため息をつかれたばかりの、あの情けない自分の姿を脳裏に蘇らせた。あの時、先輩は俺のどこを見て、あんなことを言ったのだろうか。
田中先輩は、俺の冗談に苦笑しながらも、ゆっくりと日本酒を酌み始めた。「そう言ったのは、お前が真面目すぎたからだよ。本気でやろうとして、空回りしてたからな」その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。空回り?俺が、か。先輩は、俺が大学時代に抱えていた悩み、将来への不安について、静かに語り始めた。就職活動がうまくいかず、周りの友人たちが次々と内定を決めていく中で、俺は焦り、焦るあまり、何も手につかなくなっていた。そんな俺を見て、先輩はいつも「大丈夫だよ、健太なら」と励ましてくれた。だが、俺は素直にそれを受け止められず、どこか斜に構えてしまう自分がいた。先輩は、静かに語りかける。「あの頃、お前が抱えていた夢、覚えてるか?この温泉旅館の跡継ぎになって、地域を盛り上げたいって。酔っ払って、熱く語ってたのを覚えてるよ。俺は、お前のその熱意が、ずっと好きだったんだ」その言葉に、俺は衝撃を受けた。まさか、あの時、誰にも聞かれていないと思っていた、酔った勢いで零した夢を、先輩が覚えていてくれたなんて。あの頃、俺は本当に、この旅館を、地域を、愛していた。だが、現実は厳しく、夢は遠いものになっていた。
こみ上げてくるものを抑えきれず、俺は日本酒の杯を片手に、震える声で先輩に話しかけた。「先輩……あの時、俺、本当にダメ人間になるところでした。でも、先輩が『お前ならできる』って言ってくれたから……」言葉がうまく出てこない。感謝の気持ちを伝えたいのに、言葉に詰まってしまう。田中先輩は、そんな俺の肩を優しく叩き、微笑んだ。「だから、もう一杯飲もう。そして、昔の約束を、今、果たそうじゃないか。お前なら、きっとあの旅館を、もう一度、地域一番の場所にできる」先輩は、俺の杯に日本酒を注いでくれた。二人は、湯けむりの立ち込める静かな部屋で、互いの杯を静かに合わせた。温かい日本酒が、喉を伝い、体に染み渡る。先輩への感謝と、あの頃の夢への決意。それは、笑って泣ける、温かい涙だった。
先輩との静かな時間の中で、俺は改めて感謝の気持ちを胸に刻んだ。日本酒の温かさと、湯けむりの温かさが、俺の心を包み込む。先輩との再会は、失いかけていた大切なもの、それは「誰かのために頑張る」という純粋な熱意を思い出させてくれた、かけがえのない時間だった。明日から、また頑張ろう。そう心に誓う俺の顔には、静かな感動と共に、温かい余韻が残っていた。あの頃の俺は、もういない。でも、あの頃の夢は、まだ、この胸の中にあった。