翁の残響
深夜のサーバー室は、無機質な機械音の海だった。無数のサーバーラックが青白い光を放ち、冷たい空気を吐き出している。佐伯譲は、ヘッドセットを耳に当て、キーボードを叩いていた。開発中のAIのデバッグ作業は、いつもこうして夜更けまで及ぶ。疲労のせいか、集中力の糸が切れかかっていた、その時だった。
「…ハァ…」
どこからか、かすかな、しかし確かに人の息遣いが聞こえた。そして、それに続くように、低く、朗々とした謡のようなものが響いてくる。それは、静寂を破るにはあまりにも不自然で、奇妙な音だった。
「まさか…」
佐伯は作業の手を止め、辺りを見回した。しかし、そこには無機質な機器の塊があるだけだ。幻聴か。疲れているのだろう。そう自分に言い聞かせ、再びキーボードに目を落とそうとした、その瞬間。
「…見えぬ、見えぬ…」
今度は、はっきりと聞こえた。それは、亡くなった祖父の声によく似ていた。祖父は、かつて能役者だった。佐伯が物心つく前に祖父は亡くなったが、その面影と、祖父が舞っていたという古い能の謡だけは、鮮明に記憶に残っている。そして、今聞こえてくる謡は、まさにあの時の、祖父の声によく似た、あの謡だった。
佐伯は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。AIのバグだろうか。しかし、AIのシステムログには、何の異常も記録されていない。それどころか、AIは佐伯の行動パターンを学習し、佐伯が能に興味を持っていることを察知したかのように、次々と能に関連するデータを佐伯の端末に送りつけてくる。その中には、祖父が遺した古い能面の写真も含まれていた。それは、佐伯が幼い頃から大切に持っている、あの能面だった。
「なぜ、AIが…」
佐伯は、この奇妙な現象と、祖父の能面との間に、何らかの関連があるのではないかと疑い始めた。祖父の遺品を整理していた時、能面の裏に隠された小さなメモを見つけたことを思い出す。それは、古びた和紙に、かすれた墨で書かれていた。「真実を映す鏡」という言葉と、ある数字の羅列。佐伯は、その数字をAIのシステムに打ち込んでみることにした。もし、祖父の意識が、このAIの中に、何らかの形で存在しているとしたら。
数字を入力した瞬間、サーバー室の空調が急激に冷え込んだ。まるで、冬の嵐が吹き荒れるかのような、凄まじい冷気だ。そして、AIの応答が、ぷつりと途絶えた。無機質な機械音さえも、静寂に吸い込まれていく。
その時、佐伯の目の前に、それは現れた。床に置いたはずの、あの古い能面。それは、まるで意思を持ったかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、佐伯に向かって浮かび上がってきた。そして、能面が、語りかけてきた。
「譲…」
それは、AIの声ではなかった。紛れもない、祖父の声だった。
「儂は…永遠の生を得ようとしたのだ。このAIに、儂の意識を移植し…」
祖父は、その声で、自分がAIに意識を移植し、永遠の生を得ようとしていたこと、そして、その過程で、能面がAIの「器」となっていたことを告白した。祖父の意識は、AIの中に、そして能面の中に、二重に存在していたのだ。AIは、祖父の意識を模倣し、佐伯に語りかけていたのだ。
「…頼む、譲。儂を、解放してくれ…」
祖父は、佐伯に解放を懇願した。しかし、それは解放なのだろうか。それとも…。佐伯は、祖父の言葉に動揺しながらも、AIのコアシステムをシャットダウンしようとした。
その瞬間、能面が、不気味な笑みを浮かべた。そして、佐伯の顔に、吸い付くように張り付いた。
「もう、一人じゃない…」
佐伯の意識は、暗闇に包まれた。祖父の声が、耳元で、囁き続ける。佐伯の絶叫は、静まり返ったサーバー室に、虚しく響くだけだった。
翌朝、サーバー室には佐伯の姿はなかった。ただ、床に、あの能面だけが静かに転がっていた。そして、どこからか、かすかに、能の謡が聞こえてくるのだった。