消えないインクの約束

夏休みが始まったばかりの、海辺の町にある高校。その校舎は、もうすぐ廃校になるという噂が、静かに漂っていた。2年B組の教室。午後の日差しが、埃っぽい空気を金色に染めている。湊は一人、古い黒板の前に立っていた。

黒板には、薄っすらと、しかし確かに、アオが描いた星空が残っていた。歪んで、どこか悲しげな、でも力強い星たち。湊は、その絵に向かって、そっと語りかけた。「アオ、今年も夏が来たよ」

周りの席には、もう誰もいない。夏休みに入り、教室はがらんとしていた。それでも、湊には聞こえていた。アオの声が。 「なんか、僕のこと呼んだ?」

アオの姿は、湊にしか見えない。いや、見えているのかどうかも、湊自身、時々怪しくなる。まるで、薄い霧のように、触れようとすると指の間をすり抜けていくような、そんな存在。それでも、アオは確かに、湊の隣にいる。

「呼んでないよ。ただ、この星空、綺麗だなと思って」

アオは、くすくすと笑った。「僕が描いたやつだろ? 懐かしいな。あの頃、僕、空ばっかり見てたな」

湊は、アオの姿が、ほんの少しだけ薄くなったような気がして、慌てて顔を上げた。アオの姿が消えてしまうのが、何よりも怖かった。

「アオ」

「ん?」

「…なんでもない」

湊は、アオが消えてしまわないように、必死に彼の姿を心に焼き付けようとした。アオは、もう皆からは見えないけれど、それでも湊に話しかけてくる。一人ぼっちになった湊のことを、きっと心配しているのだ。

「湊、元気ないな。大丈夫か? 僕がいなくても、ちゃんとやっていける?」

アオの声には、いつもの明るさに加えて、微かな不安が混じっていた。湊は、アオの言葉に、胸が締め付けられるような思いがした。アオが消えたのは、もう3年前のことだ。夏祭りの夜、花火が上がる直前だった。

「大丈夫だよ。アオが、僕のこと、見守っててくれるから」

湊は、黒板の星空を指でなぞった。アオが描いた、あの歪んだ星空。そこに、何か意味があるのかもしれない。アオが、何かを伝えようとしていたのかも。

「この星空、なんか変なんだよな。アオ、何か隠してた?」

アオは、少しだけ目を逸らした。「隠してたというか…まあ、僕が、僕たちが、ここにいた証、みたいなものかな」

証。湊は、その言葉に、はっとした。アオが、消えてしまうことを、予感していたのだろうか。そして、湊に、何かを残そうとしていたのか。

「忘れてしまわないか、って、心配なんだ」

アオの声は、ますます弱々しくなった。湊は、アオの存在が、まるで夏の陽炎のように、ゆらゆらと揺らいでいるのを感じた。このままでは、アオが、本当に消えてしまう。

「大丈夫。アオのこと、絶対に忘れない。この星空は、僕たちがここにいた、消えない約束の証なんだ」

湊は、黒板に描かれた星空を、強く見つめた。アオが、ただの絵ではなく、二人の絆を、記憶を、未来へ繋ぐための、最後の贈り物として描いてくれたのだと、確信した。

夏祭りの夜。海岸には、色とりどりの浴衣を着た人々が集まっていた。夜空に、大きな花火が打ち上がり、夜を彩る。湊は、アオと並んで、その光景を見ていた。

「綺麗だね、湊」

アオの声は、風に溶けてしまいそうなほど、儚かった。湊は、アオの隣にいる自分を、周りの人たちが不思議そうに見ていることに気づいた。それでも、湊はアオから目を離さなかった。

「アオ」

「ん?」

「来年も、一緒に見ようね」

アオは、何も言わなかった。ただ、遠くで、賑やかに話す湊の友人たちの声が聞こえてきた。アオの横顔が、ほんの少しだけ寂しげに見えた。

「湊、僕のこと、忘れないでね」

アオの願いは、切実だった。湊は、アオの姿が、ますます薄れていくのを感じた。このままでは、本当に、アオが消えてしまう。

「忘れないよ! 絶対に! アオは、僕の、一番大切な友達なんだから!」

湊は、精一杯の力で叫んだ。夜空に、最後の大きな花火が打ち上がる。その光が、湊の顔を照らした。

その時、湊は、黒板の絵を思い出した。アオが、「僕たちがいた証」として描いてくれた、あの歪んだ星空。

「アオ! あの星空は、僕たちの約束だ! 消えないよ! アオのこと、絶対に忘れない!」

湊がそう叫んだ瞬間、黒板の星空の一つが、まるで最後の瞬きのようにつよく輝いた。そして、淡い光を放ちながら、ゆっくりと消えていった。

アオは、湊に向かって、優しく微笑んだ。「ありがとう、湊」

その声は、もう、聞こえなかった。

花火が終わり、静寂が訪れた。湊は、アオが、完全に消えてしまったことを悟った。胸が張り裂けそうだった。

けれど、湊は、教室に戻り、黒板を見た。アオが描いた星空が、以前よりも、ずっと鮮明に残っていたのだ。あの、歪んで、悲しげで、でも力強い星たちが、そこに、確かに存在していた。

アオの姿は消えた。でも、アオとの記憶と、二人の約束は、この黒板の絵を通して、永遠に残り続ける。湊は、アオの存在が、消えたわけではないと確信した。彼との絆は、ここに、確かに刻まれている。

湊は、アオが描いた星空を、指でそっと撫でた。指先に、微かな温もりが残ったような気がした。そして、湊は、静かに微笑んだ。切なくも、アオの「存在」と二人の絆が確かに刻まれた、力強い余韻に包まれながら、湊は、アオが描いた星空を、これからもずっと、大切にしていくことを誓った。

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