囲碁盤の封印

山頂へと続くケーブルカーの車内は、ひんやりとした空気に満ちていた。数年前、プロの舞台で伝説の棋士「影」に敗北した記憶が、健一の心を重く締め付ける。あの日の対局以来、彼は過去の敗北から逃れられずにいた。今日、その「影」との再戦が決まった。向かう先は、古いが最新技術が導入されているという、山頂にある老舗の囲碁サロンだ。

サロンに足を踏み入れると、そこは静寂に包まれていた。出迎えたのは、飄々とした老主だった。「影」の姿はない。「影」は、もうこの戦いには興味がないのだと、老主は淡々と言った。そして、健一に不思議な囲碁盤を差し出した。それは、無数の線が刻まれた、古びた盤だった。「これは、過去の対局の棋譜が刻まれた盤だ。並べられた石は、過去の時間の断片。この盤は、時間そのものを封印できる」老主はそう語った。

半信半疑ながらも、健一は盤上に石を並べ始めた。置けば置くほど、あの日の敗北の記憶が鮮明に蘇る。しかし、不思議と胸の奥に、温かい安堵感が広がっていく。それは、まるで封印されていた感情が解放されていくかのようだった。過去の悔しさ、絶望、そして諦め。それら全てが、盤上の石と共に、健一の内に静かに収まっていく。

健一が、盤上に最後の石を置いた瞬間だった。サロン全体が、眩い光に包み込まれた。気がつくと、健一はケーブルカーの座席に座っていた。窓の外には、見慣れた景色が流れていく。しかし、それは数年前、敗北したあの日のケーブルカーだった。向かいの席には、「影」が静かに座っている。健一は悟った。自分は、過去の敗北を「封印」し、その記憶を追体験していたのだと。老主の言葉が、鮮やかに蘇る。「過去は変えられない。だが、過去からの学びは、未来を変える」。追体験した敗北の記憶は、もはや苦痛ではなく、未来への確かな糧となっていた。

健一は、囲碁盤に刻まれた「影」の指し手ではなく、自分自身の「封印」されたはずの指し手を見つめた。そこには、敗北を認めつつも、相手の意表を突く次の一手を模索する、未来への強い意志が表れていた。健一は、過去の自分に微笑みかけた。そして、ケーブルカーを降りた。サロンには、もう老主の姿はなかった。健一は、過去の敗北という名の封印を解き放ち、新たな決意を胸に、「影」との再戦へと向かう。実は、老主こそが「影」であり、健一の過去の敗北を「封印」し、未来への道を示唆するために、この時間旅行を仕組んだのだったのだ。過去の敗北は、未来への確かな道標となった。

この記事をシェアする
このサイトについて