正月返上の抱擁

冷え切った空気が、都会の喧騒から逃れてきた咲良の頬を容赦なく撫でた。雪が舞い始めた正月三が日、祖母の家である古民家へ、咲良は疲労困憊でたどり着いた。黒髪のロングヘアが、乾いた風に揺れる。28歳。都会でキャリアを積む日々は、張り詰めた糸のように彼女の心を締め付け、過去の恋愛の傷は、未だに鈍い痛みを残していた。

「おかえり、咲良」

玄関に立つのは、幼馴染の藤堂悠真。30歳。地元で家業を継ぎ、年を重ねた彼の顔には、穏やかな空気が漂っていた。咲良の帰省を、誰よりも心待ちにしていた男。その優しさが、咲良の荒れた心を一時的に凪がせる。

「…ただいま、悠真」

「無理しないで。ゆっくり休めよ」

悠真の温かい声に、咲良は安堵の息を漏らす。しかし、その安堵は束の間だった。過去の恋人から受けた、息詰まるほどの「干渉」の記憶が、心の波を荒れさせ始める。どうして、彼の優しさに触れると、過去の影が色濃く蘇るのだろう。咲良は、その理由を自分でも掴みきれずにいた。

「ちょっと、気分転換に行こう」

悠真は、咲良の手を引くようにして、近所の神社へ初詣に誘った。雪は次第に強くなり、鳥居をくぐると、そこは銀世界に包まれていた。静寂の中、咲良は無意識にスマートフォンの画面をタップしていた。SNS。そこに、見慣れた顔と、見知らぬ女性の笑顔があった。元恋人。新しい恋人と、幸せそうに微笑む姿。胸の奥底で、何かが熱く煮え滾った。

「…っ、あなたには、分からない!」

咲良は、衝動的に悠真を突き放した。怒り、悲しみ、嫉妬。あらゆる感情が、彼女の言葉を濁流のように押し流す。「私の何が分かるっていうのよ!」悠真は、ただ静かに咲良の言葉を受け止めていた。彼の「全てを知っている」という包容力が、咲良の過去の傷とどう結びつくのか、その糸は、まだ見えそうで、見えないままだった。

夜。雪は激しさを増し、窓の外は猛吹雪になっていた。咲良は、冷え切った部屋で、一人、眠りに落ちようとしていた。これ以上、何も考えたくない。ただ、このまま、消えてしまいたかった。その時、ドアが乱暴に開いた。

「咲良!」

飛び込んできたのは、怒りに満ちた表情の悠真だった。彼の顔に、咲良は息を呑む。

「いい加減にしろ! 一人で抱え込むな! どうして、そんなに自分を追い詰めるんだ!」

悠真は、咲良の肩を掴み、激しく揺さぶった。その怒りは、咲良の心の壁を打ち砕こうとしているかのようだ。「あなたは…!」咲良も、負けじと叫び返した。「辛かったんだ! 誰にも、誰にも、分かってもらえなかった! あの人への未練なんて、もう…!」

感情の奔流が、二人の間で激しくぶつかり合う。部屋は、激情の嵐に包まれた。咲良は、悠真の怒りの奥に隠された、深い愛情と、自分を理解しようとしてくれる切実さを、その瞳の奥に見出した。それは、今まで誰にも見せたことのない、彼の本気の姿だった。

感情をぶつけ合った後、二人は、まるで子供のように泣き崩れた。咲良は、悠真の胸に顔を埋め、震える声で、言葉にならない叫びを吐き出した。過去の恋人への未練、悠真への感謝、そして、自分自身の弱さ。悠真は、何も言わず、ただ咲良の背中を、優しく、力強く撫で続けた。

やがて、雪は止み、静寂が訪れた。窓の外には、星空が広がっていた。長年、咲良の心を重く締め付けていたものが、悠真とのぶつかり合いによって、ようやく解放されたような感覚。悠真の温かい腕の中で、咲良は、本当の「安心」と、静かな「正月」の温もりを噛み締めていた。それは、激しい感情の爆発の後に訪れる、確かな安らぎ。やっと、本当の安らぎに包まれた、温かい正月だった。

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