欲望採掘部、最後の人事

巨大テック企業『ネクスト・フロンティア』の欲望最適化セクション。その壁一面を埋め尽くすメインスクリーンには、全社員の欲望がリアルタイムで明滅していた。赤は承認欲、青は安定、緑は金銭。色とりどりの光は、まるで巨大な水槽を泳ぐ熱帯魚の群れのようだ。主任の影山悟は、その光の一つ一つを最適な部署(すいそう)へと振り分ける作業を、今日も淡々とこなしていた。かつて本物の星空を夢見た瞳は、今や人工の光を分類するだけのレンズと化している。この最適化された世界では、人の願いすら管理対象のデータに過ぎなかった。

その日、彼の視界の隅に、異質な光が生まれた。新人、海野美咲。彼女のデータは、どの色彩にも分類されることを拒絶し、ただ静かに黒く佇んでいた。まるで、あらゆる光を飲み込むブラックホールのように。システムの解析アルゴリズムが悲鳴を上げ、弾き出した単語はたった一つ。『冒険』。桁外れのエネルギー量を観測しながらも、目的も方向性も不明なその欲望を、システムは無機質に『バグ』と断じた。

「原因不明のバグはシステムの汚染源だ。即刻、『修正』か『解雇』を」

上司の冷たい通告を受け、影山は美咲を面談室に呼び出した。ガラス張りの無機質な空間で、彼女は屈託なく笑った。

「私の欲望、ですか? そうですね……数値にできない風の匂いを嗅いだり、予定調和を裏切る夕立に会いにいったり。そういうのが、私の『冒生(ぼうしょう)』なんです」

冒生。聞いたこともない言葉だった。だが、その響きは奇妙なほど腑に落ちた。彼女の瞳は、データ化できない未知の輝きを宿している。その輝きは、星図にも載らない新星のように、とうに星空を忘れたはずの影山の内なる宇宙に、小さな、しかし確かな光を灯した。

「恒星間航行の地図も、最初は白紙だった。我々はそれを、冒険と呼んだはずだ」

影山は、誰にともなく、そう呟いていた。

最終人事考課の日。セクションの誰もが、海野美咲という『バグ』がシステムから削除されるものと信じて疑わなかった。影山は自席のコンソールに向かい、深く息を吸った。そして、震える指でキーボードを叩き始める。それは、彼がこの会社に入って以来、最初で最後の反逆だった。

【新規部署創設:未踏領域探査室】 【所属:海野 美咲】 【室長:影山 悟】

存在しない部署を創設し、システムが測定不能と断じた魂をそこへ配属する。そして、自らの名も。それは、彼自身の魂に対する、最も誠実な人事だった。最後に、彼は躊躇なく自身の辞職コードを打ち込んだ。エンターキーを押す乾いた音が、静寂なフロアに響き渡る。

夜明け前。IDカードという名の電子的な鎖を失った影山と美咲は、天を突く本社ビルのエントランスから、静かに歩み出た。振り返ると、巨大なビルのガラスには、東の空が映り込んでいる。それはまだ夜の藍色でも、朝の金色でもない、誰にも名付けられていない色を湛えていた。

「どこへ行きましょうか、室長」

美咲が楽しそうに尋ねる。

「さあな。地図はまだない」

影山はそう答え、凍てつくアスファルトの上に、未知なる世界への最初の一歩を踏み出した。

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