星屑の居酒屋
閉店の合図である、古びた呼び鈴がカラン、と鳴った。時刻はとっくに夜の十時を回っている。こんな時間に客が来るのは珍しい。星野は、カウンターの隅で磨いていたグラスを置いた。店の名前は「星屑」。寂れた地方都市の片隅で、ひっそりと灯りをともし続けている。
扉を開けて入ってきたのは、一人の男だった。どこか浮世離れした、それでいて丁寧な言葉遣いをしそうな雰囲気を纏っている。男の後ろには、さらに不思議な存在が控えていた。全身を星屑のような淡い光で覆われた、馬の姿をしていた。しかし、それは私たちが知る馬の姿ではなかった。人間のように二本足で立ち、まるで静かに佇む彫刻のようだ。その馬は、実体があるのかないのか、曖昧な輪郭を揺らめかせながら、ゆっくりと店内に足を踏み入れた。
「…いらっしゃいませ」
星野は、努めて平静を装った。男は、馬を促すように一歩進み、星野の前に座った。「アキラ」と名乗った。馬は、アキラの隣に、やはり不自然な姿勢で静かに収まった。
「この馬は、ただの馬ではありません」
アキラは、星野の戸惑いを察したかのように、静かに言った。その声には、感情の起伏がほとんど感じられない。
「…ええ、それは見て取れます」
星野は、それ以上言葉を継ぐことができなかった。馬の放つ微かな光が、店内の空気ごと、静かに震わせているかのようだった。
「店主殿は、『同情』という感情について、どうお考えですか?」
アキラは、唐突にそんな問いを投げかけてきた。
「同情、ですか…」
星野は、グラスを磨く手を止めた。同情。それは、他者の苦しみや悲しみに寄り添う、温かい感情のはずだ。しかし、星野にとっては、どこか冷たく、重い響きを持つ言葉でもあった。
「私は、遠い星から参りました。この『老馬』は、かつて私の故郷で、共に生きた仲間でした。ある出来事がきっかけで、彼はこのような姿に…」
アキラは、静かに語り始めた。その言葉は、まるで遠い昔の物語のようであり、同時に、すぐ隣で語られている現実のようでもあった。星屑を纏った馬は、ただ静かに、その光を瞬かせている。
「私達の種族には、『同情』という感情がありません。他者の苦しみを感じても、それを共有し、共に泣く、ということができないのです。もし、店主殿の言う『同情』が、あの馬の痛みを理解し、分かち合おうとする心なのだとしたら…それは、我々には決して手に入らない、羨ましい感情です」
アキラの言葉は、静かだが、星野の心に深く響いた。星野は、かつて失った大切な存在のことを思い出していた。その時、周囲から向けられた「同情」の言葉や視線は、温かくはなかった。むしろ、自分自身の悲しみを、より一層際立たせる、冷たい刃のように感じられた記憶がある。他者の同情は、必ずしも救いにはならない。むしろ、その重みに押し潰されそうになることさえあった。
アキラの「同情」への渇望と、星野自身の「同情」への複雑な感情が、静かな店内で、静かに交錯した。
「…そろそろ、帰らねばなりません」
アキラは、立ち上がった。老馬も、それに従うように、ゆっくりと身を起こした。星野は、店を出ていく二人を、カウンター越しに静かに見送った。二人は、夜の闇へと溶け込むように、あっという間に姿を消した。
店には、再び静寂が訪れた。ただ、カウンターの床に、老馬の蹄が歩いた跡のような、微かな星屑の模様が、奇妙な光を放っていた。
星野は、一人、グラスに残った酒を静かに傾けた。人間ではない存在が抱える「同情」への渇望。そして、人間が抱える「同情」への複雑な感情。それらが、この寂れた居酒屋の片隅で、静かに、しかし確かに、交錯した。夜空を見上げれば、無数の星屑が瞬いている。あの馬の光のように、遠い、遠い、輝きを放って。