ベランダの向こうの太鼓
「このままじゃ、ただのニートになっちゃうよ!」
高校三年生の佐藤健太は、母親の恵子から毎日のようにそう茶化されていた。成績は芳しくなく、進学のことばかり考えていても、漠然とした不安しか募らない。健太は「うるせーな、母ちゃん。俺だって将来、世界を驚かせるようなことしたいんだ!」と、軽口で反発する。その「世界を驚かせるようなこと」が、幼い頃から心に秘めている和太鼓のことだとは、まだ口に出せずにいた。
健太は、自室のベランダによく出た。視線の先には、どこまでも広がる空。幼い頃、父が力強く太鼓を叩いていた姿を思い出す。あの響き渡る音、大地を揺るがすような迫力。いつか自分も、あの父のように…。
そんなある日、健太はベランダから、聞き慣れない音を聞いた。
「コン、コン…タタッ、コン…」
それは、何かが懸命に太鼓を叩いている音だった。しかし、そのリズムはどこかぎこちなく、父が叩いていたような力強さや正確さはない。まるで、初めて太鼓に触れた人のような、不器用な響き。
「何の音だろう?」
不思議に思い、健太が音のする方、つまりベランダの端へとそっと近づき、覗き込んだ。そこにいたのは、他ならぬ母親の恵子だった。
古びた和太鼓の前に座り、一生懸命にバチを振るっている。その真剣な横顔を見て、健太は思わず吹き出しそうになったのを、ぐっとこらえた。
「母ちゃん、何やってんだよ?」
健太の声に、恵子はびくりと肩を震わせた。
「あ、健太。もう、びっくりしたじゃない。…これはね、健太が将来、太鼓で食べていくなら、お母さんも基礎くらいは叩けるようにならなきゃと思ってね」
恵子は、照れくさそうに笑った。そして、健太が幼い頃に病気で手放さざるを得なかった、亡き父の形見の太鼓だと明かした。健太が太鼓を好きになるきっかけとなった、大切な太鼓だ。
「内緒で練習してたんだよ。でも、これがなかなか難しいんだねぇ」
恵子の言葉に、健太は苦笑いした。確かに、基礎は叩けるようにならなければならないだろう。しかし、そのリズムはあまりにも…。
「母ちゃん、それは違うよ!」
健太は、思わず口を挟んだ。そして、恵子の隣に座り、バチの握り方から、足の運び方、そして太鼓の芯を捉える叩き方まで、丁寧に教え始めた。
「こうだよ、母ちゃん。父さんみたいに、魂を込めて叩くんだ」
教えるうちに、健太は父から教わったこと、父の力強い演奏を鮮明に思い出した。父の叩き方を、無意識のうちになぞっていた。恵子は、健太の的確な指導に、次第にコツを掴んでいく。ぎこちなかったリズムが、少しずつ力強さを帯びていく。二人の間には、これまでになかった真剣な空気が流れた。それは、父の太鼓の音色を、母と子が共に奏でようとする、静かな誓いのように聞こえた。
健太は、恵子に教える中で、改めて太鼓の魅力、そして父への想いを強く意識するようになった。進学先の選択肢として、音楽系の専門学校も視野に入れ始めていた。しかし、恵子は健太の意思を尊重しようとした。
「健太の将来は健太のものよ。本当は、あなたに苦労してほしくない…でも、あなたの夢を応援したい。お母さんの都合で、あなたの夢を邪魔するわけにはいかないわ」
母親の言葉に、健太は胸が熱くなった。これまで、母親の愛情と支えに、どれだけ甘えていたことか。そして、その温かい愛情が、自分の夢を応援してくれているのだと、改めて実感した。
進学発表の日。
健太は、恵子に意を決して告げた。
「俺、音楽系の専門学校に進学することにしたよ。太鼓、頑張るから」
恵子は、目に涙を浮かべながらも、満面の笑みで健太を抱きしめた。
「よく決めたね。お父さんも、きっと喜んでるよ」
その夜、二人はベランダで、父の形見の太鼓を交互に叩いた。健太の力強いリズムに、恵子の少しぎこちないながらも温かいリズムが呼応するように響き渡る。それは、進学という新たな一歩を踏み出す健太へのエールであり、亡き父への感謝、そして母子の絆の証だった。
健太は、ベランダの向こうの空を見上げた。太鼓の音は、彼らの心の中にも響き渡り、未来を力強く祝福しているようだった。この音を、いつか世界に響かせたい。そんな決意を胸に、健太は力強く太鼓を叩き続けた。