港町の蜃気楼劇場

借金取りの怒号が、雨に濡れた石畳に鈍く響く。古川悟は、その声から逃れるように、錆びついた鉄の扉を押し開けた。かつて、自分が演出を手掛け、千秋楽の拍手が今も耳に残る、あの港町の劇場。しかし、今やその面影はなく、埃にまみれた舞台装置と、色褪せた衣装が、無残な骸のように転がっているだけだった。

夕暮れ時、港からは生臭い魚の匂いが風に乗って漂ってくる。空腹が胃を締め付け、古川の心はさらに鉛のように重くなった。

「…誰もいないのか。」

呟いた声は、がらんとした空間に虚しく吸い込まれた。過去の栄光が、今はただの重荷となって、彼を押し潰そうとしている。

その時、静かに扉が開いた。港で働くマユミが、そこに立っていた。彼女の目は、暗闇の中でも静かに光を宿しているようだった。

「古川さん。こんなところで、どうなさったのですか。」

「いや、少し、風に当たろうかと…」

古川は、しどろもどろに答えた。マユミは、彼の言葉を静かに受け止め、そして、こう言った。

「劇場で、特別な食事を用意しましょうか。」

「…食事? この劇場で?」

怪訝な顔をする古川に、マユミは微笑みかけた。その微笑みは、どこか掴みどころがなく、誘うようでもあった。

「ええ。この劇場は、訪れる方の、最も深い欲望を叶える場所ですから。」

欲望。その言葉が、空腹に飢えた古川の心を、微かに震わせた。借金から解放されたい。もう一度、あの頃のように輝きたい。そんな、叶うはずのない願いが、劇場という名の幻影に重なる。

「…いいだろう。」

空腹と、マユミの不思議な言葉に導かれるように、古川は頷いた。

マユミが用意した食事は、驚くほど豪華な魚料理だった。新鮮な魚介が惜しげもなく並び、湯気とともに芳醇な香りが立ち上る。古川は、長らく忘れていた幸福感を味わいながら、夢中でそれを平らげた。

「…美味かった。ありがとう、マユミさん。君の言う通り、この劇場は、何か特別な力を持っているのかもしれないな。」

古川が感謝の言葉を口にしようとした、その瞬間。

「おい、古川! どこだ!」

けたたましい声が、劇場に響き渡った。借金取りたちが、血相を変えて現れたのだ。

彼らは古川を見つけると、一斉に襲いかかろうとした。だが、なぜか、その動きが鈍い。まるで、粘着質な飴玉の中にいるかのように、思うように進むことができない。

「な…なんだ、これは!」

「動けねぇ…!」

古川は、マユミの言葉を思い出した。「劇場は、訪れる方の最も深い欲望を叶える場所」。借金から逃れたい。そう願った自分が、劇場に守られているのだと、錯覚した。

「ハハハ! どうした、雑魚ども! 俺様は、この劇場が守ってくれるんだよ!」

古川は、借金取りたちを嘲笑った。一時的な安堵が、彼を陶酔させた。借金取りたちは、激昂し、劇場を壊そうと、必死にもがいた。

その時、劇場全体が、淡い、しかし異様な光を放ち始めた。壁に飾られた古いポスターの役者たちの目が、血走ったように古川を追う。そして、借金取りたちの姿が、まるで溶けていくかのように、ポスターの役者たちへと変貌していった。

彼らは、もはや抵抗することもできず、ただ立ち尽くしている。劇場から逃げ出すことも、古川に手を出すこともできない。

古川は、自分が願った「借金からの解放」とは、借金取りたちをこの劇場に永遠に囚われの身にすることだったのだと、悟った。背筋を駆け上がる冷たい恐怖に、彼は震えた。

マユミは、静かに微笑んでいた。

「劇場は、訪れる方に、相応しい『ご馳走』を提供しただけです。」

そう言い残すと、彼女は港の闇へと、音もなく消えていった。

古川は、劇場に残された、血の跡のように魚の油が染みたテーブルクロスと、永遠に舞台に縛り付けられた借金取りたちを眺めた。目の前で満たされたはずの空腹は、今や、欲望の空虚さを示すかのようだった。ただ、空虚な恐怖だけが、彼の全身を支配していた。

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