黄昏の倉庫、君の声
夏の終わりの、焼けるような日差しがアスファルトを焦がしていた。ヒナタは、高校に入ってから、声が出せなくなった。原因は、あの夏の事故。言葉を失った彼女は、ただ、静かに日々をやり過ごすしかなかった。今日、彼女は一人、古い倉庫街にいた。幼い頃、カイと一緒に秘密基地にしていた場所。錆びついた鉄骨と、埃っぽい空気。懐かしい匂いが、胸の奥を締め付けた。
倉庫の奥へ、足を踏み入れる。薄暗い空間に、風が吹き抜ける音が響いた。いや、歌声のようにも聞こえる。それは、まるで、失ったはずの自分の声の残響のようだった。ヒナタは、その不思議な音に引き寄せられるように、さらに奥へと進んでいった。
「ヒナタ!」
背後から、聞き慣れた、弾むような声がした。カイだ。彼女の幼馴染で、一番の親友。声が出せなくなって以来、いつも心配そうに彼女を見守ってくれている。
「…どうしたの、こんなところで」
カイは、ヒナタの隣に腰を下ろした。言葉にならないヒナタの表情を、彼はまっすぐに見つめた。
「あの事故のこと、まだ引きずってるのか?」
ヒナタは、こくりと頷いた。あの日の光景が、今でも鮮明に蘇る。耳をつんざくような金属音。そして、自分の、悲鳴のような叫び声。カイの顔が、苦痛に歪んだ。
「俺も、あの時の音、忘れられないよ。お前が…」
カイは、言葉を詰まらせた。ヒナタは、震える手で、持っていたノートに書き始めた。
『怖かった。もう、声は出ないって思った』
「そんなことない!」
カイが、ヒナタの手からノートをひったくるように取り、力強く言った。
「お前、音楽好きだっただろ。俺たち、いつもここで歌ってた。もう一度、あの頃みたいに歌おうよ。ヒナタの声、聞きたいんだ」
カイの言葉は、ヒナタの心に、小さな、しかし確かな灯をともした。もう一度、歌いたい。カイのために、そして、自分のために。
夕暮れが、倉庫の窓から差し込み、埃っぽい空気を金色に染め始めた。その時、倉庫の壁に、淡い光の渦が現れた。そして、その中心から、風に乗ったような、透明感のある声が響いた。
「声は、失われたのではない。まだ、見つけていないだけ」
それは、妖精の声だったのか、それとも、この倉庫に宿る、ヒナタ自身の記憶の残滓だったのか。ヒナタには、もう区別がつかなかった。
「あなたの心の奥底、一番大切な想いの中に、眠っている」
大切な想い。ヒナタは、カイの顔を見た。彼への、この幼い頃からの、ずっと変わらない想い。もう一度、歌いたいという、切なる願い。ヒナタは、唇を震わせ、必死に声を出そうとした。
喉から漏れるのは、苦しげな息遣いだけ。それでも、彼女は諦めなかった。カイへの想いを、全身で、声にしようと、もがき続けた。
「…か…」
かすかな、しかし、確かな響き。それは、悲鳴にも似ていたが、それ以上に、愛おしさを湛えた、ヒナタの声の、最初の断片だった。
「…カイ…」
「…!」
カイは、目を見開いた。そして、ゆっくりと、優しい、温かい微笑みを浮かべた。
妖精の声は、もう聞こえなかった。倉庫には、静寂が戻っていた。ヒナタの声は、まだ、完全ではなかった。でも、確かに、声を取り戻す希望が、そこにあった。カイへの想いが、彼女の声を、再び呼び覚ましたのだ。夏は終わりを告げ、二人の新たな物語が、静かに、しかし力強く、始まろうとしていた。