弔いの雨
梅雨のある週だった。しとしとと、まるで世の終わりのように雨が降り続いていた。
佐藤陽子は、兄・健一の突然の死に、まだ実感が湧かないまま、葬儀の場に座っていた。祭壇に飾られた兄の遺影は、いつもと変わらず、太陽のように明るい笑顔を浮かべている。周囲の人々は皆、健一の死を惜しみ、悲しみに暮れているようだった。陽子も、兄を慕っていた一人ではあったが、その胸に去来するのは、兄への劣等感と、自分との隔たりに対する虚しさだけだった。社交的で、才能に溢れ、誰からも愛される兄。それに引き換え、自分は、ただ目立たず、控えめに生きるだけの存在だ。雨音だけが、葬儀場の静寂をかき消していた。
葬儀が終わり、参列者が帰っていく。陽子は、一人、健一の部屋に残された。遺品を整理するためだ。埃っぽい部屋には、兄の面影が色濃く残っている。ふと、机の引き出しの奥から、一枚のメモが見つかった。そこには、殴り書きのような文字で、「返済期日」「〇〇金融」と書かれていた。借金? 社交的で、いつも周りを明るくしていた兄が、借金に追われていた?
陽子は、兄の恋人である田中恵美の顔を思い浮かべた。いつも明るく、奔放な彼女。健一の借金について、何か知っていたのだろうか。そして、兄の友人である鈴木悟。健一とは対照的に、地味で目立たない男。葬儀の際、陽子に「健一さんは、いつも羨ましかった。僕にはないものばかり持っていたから」と、どこか妬むような響きで話していたのを思い出す。
数日後、恵美が陽子を訪ねてきた。雨はまだ、容赦なく降り続いている。「陽子さん、健一さんが亡くなる前、何か悩んでいる様子ではなかった? あなたに、何か隠していたこととか…」。恵美は、不安げに陽子に問いかけた。その言葉には、単なる心配以上の、何か含みがあるように聞こえた。
さらに、鈴木も陽子に接触してきた。「佐藤さん、健一さんのこと、もっと話しましょう。彼は、いつも強そうに見えて、実は脆いところもあったんですよ」。鈴木は、健一の失敗談や、弱さについて、陽子に語り始めた。陽子は、兄の優しさの裏に隠された、繊細な脆さを感じ取っていた。兄への複雑な感情が、静かに芽生えてくる。
そんなある雨の夜、陽子は、兄の部屋で、兄が恵美に送ったと思われるメッセージを見つけた。「もう君の重荷にはなれない。さよなら」。そして、鈴木に宛てた手紙も。そこには、「君には、僕にはないものがある。羨ましいよ」と書かれていた。
陽子は、悟った。兄は、借金苦に追い詰められ、誰にも迷惑をかけまいと、自ら命を絶ったのだ。恵美や鈴木の言葉、そして兄が残したメッセージ。それら全てが、一点に収束していく。兄は、二人を、そして自分を、これ以上苦しめたくなかったのだろう。陽子の胸に、疑念が、そして兄への痛ましいまでの憐憫が、静かに、しかし深く刻み込まれた。
葬儀は終わり、雨もようやく小降りになってきた。陽子は、兄の遺品を綺麗に片付け、恵美と鈴木に連絡を取った。「兄は、お二人ともを恨んでいなかったようです。むしろ、感謝していたと、手紙にありましたから」。陽子は、静かに告げた。兄の死は、彼を「愛していた」はずの人々の、それぞれの「エゴ」と「嫉妬」が引き起こした、見えない連鎖の結果だったのだ。恵美の「健一は私を愛していたはず」という独占欲。鈴木の「健一は羨ましかった」という劣等感。そして、陽子自身も、兄の輝きに嫉妬していた。兄の「怪死」は、誰かの直接的な加害ではなく、周囲の人間たちの「醜い心」が、彼を静かに、しかし確実に追い詰めた結果だったのだ。
陽子は、兄の部屋にあった、兄が大切にしていた観葉植物に水をやった。しかし、その手は、兄の墓に供えるはずだった花瓶から、水を汲んだものだった。兄の遺品である「怪死」の真相を、陽子は静かに、そして冷たく、恵美と鈴木に「伝える」こともなく、ただ一人抱え込む。兄の「怨霊」とは、生前の兄を苦しめた、周囲の人間たちの「醜い心」そのものだったのだと確信する。陽子の心には、兄への憐憫と、周囲への冷たい怒り、そして自分自身もまた、兄を羨み、妬んでいたという、拭い切れない罪悪感が、雨上がりの空のように、静かに、しかし重く、残っていた。
陽子は、静かに日常へと戻っていった。兄を苦しめたのは、誰かの直接的な加害ではなく、他者の幸福を妬み、自己の欲望を満たそうとする人間の「醜い心」そのものであったという、突き放されるような不快感と虚無感が、読後、静かに漂っていた。