ランドセルと憧れのバラ

佐藤健一は、庭のバラに囲まれて暮らしていた。赤、白、黄色、ピンク。色とりどりの花弁が風に揺れる様は、まるで秘密の花園だ。だが、健一の心には、長年晴れぬ空があった。50年経っても、子供の頃に買ってもらえなかった、あのピカピカのランドセルへの未練が、時折、胸を締め付けるのだ。 「和子さん、俺、子供の頃ランドセル買ってもらえなかったんだよな…」 夕食の食卓で、健一はポツリと呟いた。妻の和子は、味噌汁をすする手を止め、呆れたような、それでいてどこか楽しんでいるような顔で夫を見た。 「また始まったわね、その話。健一さん、もう50よ?」 「いや、だってさ…」 健一は言葉を濁した。お笑い芸人だったわけではないが、人生のどこか掴みどころのない、飄々とした性格が彼の持ち味だった。しかし、このランドセルだけは、どうにも彼の心の奥底にこびりついて離れない、頑固な汚れのようなものだった。

ある日曜日、健一は妻と近所のショッピングモールへ出かけた。目的は、ガーデニング用品の物色だ。しかし、彼の視線は、子供服売り場の片隅に展示されていた、真新しいランドセルに釘付けになった。 「こ、これは…!」 それは、光沢のある素材に、幾何学的な模様、そして機能的なバックル。まるで、子供の頃に夢見た、宇宙船への搭乗パスポートのようだった。 「人生で一度も背負えなかった、あの憧れのランドセル!しかも、この機能性!まるで秘密基地へのパスポートだ!」 健一は、50年の時を経て、子供のように目を輝かせた。妻に内緒で、自分用のランドセルを買おう。その瞬間、彼は長年の「買ってもらえなかった」という呪縛から、半ば強引に解放された気がした。

その週末、健一は園芸店で、ひときわ目を引くバラの苗を見つけた。それは、深紅の花弁を持つ、名付けて「情熱の赤」という高級品種だった。しかし、その値段は健一の眉をひそめさせるものだった。 「うーん、これは悩むな…」 店員の田中さんは、健一の様子を見て、優しく声をかけた。 「佐藤さん、そのバラは素晴らしいですよ。手間はかかりますが、咲いた時の感動は格別です」 健一は、妻に相談した。 「和子さん、あの『情熱の赤』、どうしても欲しいんだけど…」 和子は、ため息をついた。 「また始まったわね。まあ、そんなに欲しいなら、何か頑張ってくれたら考えてあげるわ」 「よし、俺はやるぞ!」 健一の目に、決意の光が宿った。彼は、妻に内緒で、購入したランドセルを庭の物置の奥、古い農具の陰に隠した。妻にバレないよう、庭仕事の合間にこっそりランドセルを眺め、バラの成長を祈る日々。物置での隠し場所探しや、妻の目を盗む際の滑稽な行動は、まるでスパイ映画のワンシーンのようだった。

バラの開花時期が近づき、健一の妄想は膨らむ。ランドセルを背負って、バラの手入れをする自分。その姿は、きっと絵になるに違いない。

そんなある日、和子が物置の整理を始めた。 「ちょっと、これ、何?…まさか、健一の?」 和子の手には、農具の陰から現れた、ピカピカのランドセルが握られていた。 健一は観念した。 「ああ、あれは…その…」 健一は、ランドセル購入の顛末と、「情熱の赤」への想いを、正直に告白した。 和子は、健一の純粋な行動に、呆れながらも、その子供のような一面に、「もう、しょうがない人ね」と微笑んだ。 「でも、そのランドセル、ちゃんと庭仕事に使いなさいよ。バラの肥料でも入れて運ぶとか?」 和子の提案は、健一の妄想を、現実の庭仕事に結びつける、温かいものだった。 健一は、「お、おう…」と、妻の理解と愛情に、少し照れながらも、嬉しそうに頷いた。

その日、健一は、購入したランドセルを背負い、憧れのバラの苗「情熱の赤」をその中に大切にしまい、庭へと向かう。妻は、その姿を微笑ましく見守っていた。 健一は、ランドセルを背負ったまま、バラの植え付けを始めた。彼は、長年のコンプレックスと、大人になってからのささやかな夢を、同時に叶えたのだった。それは、子供のような純粋さと、大人なりの諦めが混ざった、奇妙な満足感だった。バラは美しく咲き誇り、ランドセルは庭仕事の道具として、健一の新たな日常に溶け込んでいた。

50代にして、ランドセルを背負ってバラを植える俺も、なかなかイカれてるよな。まあ、バラが綺麗なら、それでいいか。

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