窓辺の賢者の失われた言葉
古びた王国の、塔の一室。中世ヨーロッパ風の、石造りの重厚な部屋だった。レオナルド王子は、眉間に皺を寄せ、部屋の中を見回した。数刻前まで、この部屋の窓辺には、王国の賢者エリアスがいたはずだ。いつものように、遥か彼方を見つめるような、あの掴みどころのない表情で、何かを呟いていた。しかし、王子が振り向いて一瞬目を離した隙に、賢者は跡形もなく消え失せていたのだ。
部屋に残されていたのは、重厚な金属製の宝箱と、一枚の羊皮紙だけ。宝箱には頑丈な鍵がかかっており、通常の鍵穴は見当たらない。羊皮紙には、エリアス賢者らしい、古風で癖のある文字でこう記されていた。「窓の外に、失われた言葉の鍵がある」
「失われた言葉…?」
王子は、羊皮紙を握りしめ、窓の外に目をやった。城壁が築かれた庭園、その向こうに広がる鬱蒼とした森。どこにも、賢者の姿はなく、ましてや「失われた言葉」など見当たらない。
「エリアス賢者様は、一体何を意味しておられたのだ?」
王子は、部屋の中をくまなく調べた。窓の外を、城壁の上を、庭園を、森の入り口まで、考えつく限りの場所を探し回った。しかし、手がかりは一切掴めない。賢者の言葉は、まるで風に溶けた煙のように、指の間をすり抜けていく。
王子は、自室に戻り、書斎に篭った。エリアス賢者が遺した書物や記録を、片端から読み漁った。賢者は、しばしば言葉遊びや、暗号めいた謎かけを好む人物だったことがわかった。彼の言葉は、文字通りの意味ではなく、隠された意味を読み解く必要があったのだ。
「まさか…『失われた言葉』という言葉そのものが、暗号なのでは?」
王子は、羊皮紙に書かれた文字を何度も見つめ直した。そして、宝箱に目を移した。鍵穴らしきものが見当たらない、その奇妙な仕掛けに、再び注意を払った。
その時、窓の外に目をやった王子の目に、ある違和感が映った。窓ガラスに映る、城の風景。そして、その風景の奥に、まるで重ね合わさるように見える、賢者の部屋の内部。賢者は、この窓ガラスに映る「何か」を見ていたのではないか?
王子は、窓ガラスに顔を近づけた。部屋の明かりを消し、窓の外の月明かりだけを頼りに、ガラスの表面を指でなぞる。すると、ある角度から、驚くべきことに、ガラスの表面に微かに文字が浮かび上がっていることに気づいた。それは、王子がこれまで見ていた角度からは決して見えない、特殊な加工が施された窓ガラスだったのだ。
浮かび上がった文字は、はっきりと「トキハナイ」と読めた。
「トキハナイ…?」
王子は、その言葉を宝箱の仕掛けに当てはめようとした。しかし、何度試しても、仕掛けは動かない。焦りが募る。その時、賢者の言葉が脳裏に蘇った。「失われた言葉の鍵」
「鍵…」
王子は、ふと閃いた。賢者は、言葉遊びを好んだ。もしかしたら、この「トキハナイ」も、逆さまに読むのかもしれない。
「イナハキト…」
王子は、その言葉をさらに分解し、賢者が好んだ言葉遊びのテクニックを思い出した。賢者の名前「エリアス」の一部、そして「鍵」を意味する古語、さらに「宝箱」を意味する言葉の断片が、組み合わさっていく。
「イナハ…キト…」
王子が、それらを注意深く組み合わせると、宝箱の複雑な仕掛けが、カチリ、と音を立てて解除された。
宝箱が開くと、中には一枚の手紙と、一冊の書物が入っていた。手紙はエリアス賢者からのものだった。
「レオナルド、我が息子よ。 汝がこの箱を開ける頃、我は既にこの場にいないだろう。 しかし、汝が自らの知恵と観察眼をもって、この謎を解いたならば、それは何よりの証となる。 真の『鍵』とは、我のような老賢者の言葉ではなく、汝自身の内にある。 この書物には、王として必要な知恵が記されている。しかし、それを読み解く鍵は、汝が今、この手で掴んだものなのだ。 成長した汝に会える日を、心待ちにしている。
エリアス」
賢者は、王子が自力で謎を解く過程で、真の「鍵」、すなわち王としての資質と、自らの力で道を切り拓く知恵を見出すことを予期していたのだ。姿をくらませたのは、王子を試すためでも、見守るためでもなく、王子が自らの力で「失われた言葉」を見つけ出す、その瞬間を静かに見届けるためだったのかもしれない。王子は、賢者の深い愛情と、巧妙な計らいに、静かに感動していた。