記憶を縫う糸
下町の片隅にひっそりと佇む洋服お直し店「アトリエ・メグミ」。色とりどりの生地が窓辺に並び、奥には母から受け継いだ古いミシンが静かに鎮座している。店主の佐倉恵は、寡黙だが柔らかな物腰の、40代の女性だ。母が遺したこの店で、日々、依頼された服を丁寧に仕立て直している。けれど、恵の心には、拭い去ることのできない過去の記憶が、重く、暗い影を落としていた。店には、母が使っていた古い生地や、形見の裁縫道具が、まるで時が止まったように埃をかぶって置かれている。
ある晴れた日の午後、健太が、一着の古びたコートを持ち込んできた。彼は、恵の店のアルバイトで、20代前半の青年だ。明るく人懐っこいが、その瞳の奥には、どこか掴みきれない影が宿っている。「祖母が昔着ていたコートなんです。これを、娘に着せたいと思いまして」
恵は、コートを受け取り、裏地をめくった。そこには、かすかに、子供の頃の刺繍が残っていた。それは、幼い頃の、母との約束、そして、叶わなかった夢の記憶を呼び覚ますものだった。恵の胸が、ざわつく。母の残した、あの懐かしい糸の色。恵は、そのコートの記憶を辿るように、丁寧に、しかし、どこかぎこちなく、作業を進めた。
健太は、恵の様子がおかしいことに気づいていた。コートを預かった際、祖母との思い出話をする中で、彼はぽつりと呟いた。「僕も、昔は祖母によく服を作ってもらったんです。でも、今はもう…」その声には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。恵は、健太の言葉に、自身の過去と重なるものを感じ取った。それは、失われた温もり、もう戻らない時間。
そんな中、幼馴染の綾が、店を訪れた。しっかり者で、恵の良き理解者でもある彼女は、恵が昔の記憶に囚われていることを案じていた。「恵、過去は変えられないけれど、そこから何を学ぶかは、自分で決められるのよ」綾は、恵の肩を優しく叩きながら、そう語りかけた。
恵は、健太のコートを直し続けるうちに、母が残した裁縫技術、そして、母が込めた温かい想いを改めて感じていた。それは、服という形を通して、人々の「メモリ」、つまり、記憶を繋いでいく、尊い仕事なのだと。
コートの修繕が、ほぼ完成に近づいたある日。恵は、健太を呼び寄せ、コートの裏地に隠された、母が残した小さなメッセージを見せた。それは、母から恵への、励ましと、過去を乗り越えてほしいという、切なる願いが込められたものだった。恵は、そのメッセージを読み、長年、心の奥底に封じ込めていた母への想い、そして、自分自身への後悔と、静かに向き合った。溢れ出す涙が、彼女の頬を伝った。健太は、何も言わず、ただ黙って恵の隣に寄り添った。その横顔には、祖母への、複雑な思いが、かすかに浮かんでいた。
「ありがとうございます。これで、娘にもおばあちゃんのことを伝えられます」
生まれ変わったコートを、健太は嬉しそうに受け取った。感謝の言葉に、恵の心も、少しだけ軽くなった気がした。店には、以前よりも、温かい空気が流れていた。
恵は、母の形見の裁縫箱を手に取った。新たな気持ちで、これから出会う人々の「メモリ」を、丁寧に、そして温かく、糸で紡いでいく。健太は、そんな恵の働く姿を、頼もしく見守っていた。色とりどりの新しい生地が、店先に並び始めていた。