星屑の兄弟
静寂が、宇宙探査船「オリオン」を支配していた。本来であれば、地球との定期通信が途絶えた時点で、警報が鳴り響くはずだった。だが、船内は不気味なほど静まり返っている。兄のリョウは、メインコンソールを睨みつけながら、冷静に状況を分析していた。大気制御システムは正常。生命維持装置も問題ない。ただ、外部との通信が完全に途絶えているだけだ。
「ケンジ…」
リョウは、隣の船室で眠っているはずの弟の名前を呟いた。弟への愛情は、自分でも深いと自覚している。だが、その愛情は時に、リョウ自身を苦しめるほど、重く、濃密なものとなっていた。ケンジが、この静寂の中で、一人でどこかへ行ってしまったのではないか。そんな不安が、リョウの胸を締め付けた。
船内を巡っても、ケンジの姿は見当たらない。リョウの不安は、次第に焦燥感へと変わっていく。そして、貨物室で、異変に気づいた。本来、予備として保管されているはずの船外活動用宇宙服が、一つ、なくなっているのだ。
「まさか…」
ケンジが、一人で船外へ? 感情的で、兄に依存しがちな弟が、そんな無謀なことをするはずがない。リョウは、弟の行動を理解できず、苛立ちを覚えた。それは、弟への心配と、理解できない行動への怒りが入り混じった、複雑な感情だった。
リョウは、迷わず宇宙服を着用し、エアロックを開いた。漆黒の宇宙空間に、無数の星々が瞬いている。その広大な闇の中、遠くにかすかな光が見えた。ケンジの乗った小型ポッドだ。リョウは、ポッドに接近しながら、必死に通信を試みた。
「ケンジ! 聞こえるか! 応答しろ!」
しかし、ポッドからの応答はなかった。リョウは、胸にこみ上げる怒りを抑えきれなかった。なぜ、こんなことをした? 僕の愛情が、そんなに重かったのか?
ポッドに乗り移ると、そこには、意識のないケンジがいた。リョウは、慌てて弟の顔を覗き込んだ。そして、ケンジの手元に、一枚のメモが握られていることに気づいた。
『兄さん、ごめん。もう一人になりたかった』
リョウは、そのメモを握りしめた。弟の言葉が、リョウの心を激しく揺さぶった。一人になりたかった? 僕の愛情から、解放されたかったのか?
ケンジは、かろうじて意識を取り戻したが、リョウの問いかけに、曖昧な返事しかしない。「大丈夫…」という言葉だけが、虚しく響いた。リョウは、弟が何かを隠していることを感じ取った。
「戻ろう、ケンジ」
リョウが、ポッドから船内へ戻ろうと促すと、ケンジは、弱々しい声で言った。
「兄さん、一人で帰って。僕は…」
その声は、どこか安堵しているようにも聞こえた。まるで、長年の重荷から解放されるかのような、微かな安堵がそこにあった。
リョウは、ケンジを抱きかかえるようにして、船内に戻った。ケンジは、医療ポッドに入ると、静かに息を引き取った。リョウは、悲嘆に暮れた。だが、ケンジの遺したメモと、医療ポッドの記録に、奇妙な矛盾があることに気づいた。
記録は、ケンジが船外で死亡したことを示していた。しかし、メモには「もう一人になりたかった」と書かれている。リョウは、ケンジが「もう一人になりたかった」のは、自分の過剰な愛情から解放されたかったのだと悟った。そして、船外での死を偽装したのは、リョウに「弟を失った」という悲劇の主人公を演じさせ、永遠に孤独な「兄」として生きさせるための、ケンジなりの「解放」だったのかもしれない。
リョウは、ケンジが望んだ「孤独」を、皮肉にも与えられてしまったのだ。船外での死は、本当にケンジの意志だったのか? それとも、リョウが望んだ「弟のいない世界」への第一歩だったのか? 永遠の謎が、リョウを苛み始めた。静寂に包まれた宇宙探査船の中で、リョウは、弟のいない、永遠の孤独を抱きしめるしかなかった。