カヤック日報
波打ち際が、灼けつくようなアスファルトの熱を帯びていた。佐藤陽菜は、顔に張り付く汗を額で拭いながら、次々と運ばれてくるカヤックを砂浜に並べていく。夏休み、この地方のリゾート施設でアルバイトをしている。真夏の日差しは容赦なく肌を刺し、全身から湯気が立ち上るかのようだ。カヤックの準備、片付け、清掃。そして、客の安全確認。彼女の毎日は、この灼熱の砂浜と、絶え間なく続く作業に埋め尽くされていた。日報には、今日の客数、トラブルの有無、清掃状況を、事細かに、そして丁寧に記録していく。体力的にはきつい。それでも、この一ヶ月の頑張りが、来月の仕送りに繋がる。そう自分に言い聞かせ、陽菜は黙々と作業を続けた。
「陽菜ちゃん、ちょっといい?」
午後の休憩中、先輩の田中健一が、缶コーヒーを片手に話しかけてきた。飄々とした、掴みどころのない男だ。
「カヤックのメンテナンス、実は俺、適当にやってるんだよね。どうせすぐ壊れるし、どうせ誰かがやるんでしょ?」
その言葉に、陽菜の背筋に冷たいものが走った。安全に関わることだ。もし、カヤックが不調で、事故でも起きたら。
「え…でも、それって…」
「心配しすぎだよ。それに、支配人もそんなこと気にしてないって」
田中は、気にするなとでも言うように、肩をすくめて笑った。陽菜は、日報にメンテナンスの不備を匂わせるような記述をしようとした。しかし、その前に支配人に呼び止められた。
「佐藤さん、日報は簡潔に。ポジティブな報告だけを頼む」
冷たい、事務的な声だった。
日報に書けない不備。田中がサボっているであろう作業。陽菜は、持ち前の真面目さから、それを放っておけなかった。仕事が終わった後、残業時間外。誰もいない静かな砂浜で、陽菜は一人、カヤックの点検を始めた。シートのほつれを繕い、船体の傷を補修する。本来なら、田中や施設の専門担当者が行うべき仕事だ。でも、陽菜は「みんなのために」「安全のために」と自分に言い聞かせた。この頑張りが、いつか誰かに見てもらえるかもしれない。この状況が、少しでも良くなるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、彼女は黙々と作業を続けた。日報には、連日「問題なし」と記入し続けた。
連日の無理がたたったのか、陽菜はついに体調を崩してしまった。それでも出勤しようとしたが、玄関で力尽き、その場に倒れ込んだ。病院で告げられたのは、過労と脱水症状。入院が必要だという。
その頃、施設では、陽菜が懸命にメンテナンスしていたカヤックに、重大な不具合が発生していた。彼女が修理した箇所が、別の箇所に予期せぬ負担をかけていたのだ。運悪く、そのカヤックに乗っていた客が、事故に遭いかけた。
病院のベッドの上で、陽菜は施設から送られてきた日報の控えを眺めていた。そこには、自分が記入した「問題なし」という文字が、虚しく並んでいる。ふと、作業着のポケットに手を入れると、陽菜が自分で修理したカヤックの部品が、ひっそりと顔を覗かせた。
支配人から見舞いの言葉も届いていた。「君の代わりはいくらでもいるから、ゆっくり休んでくれ」。
陽菜は、自分が懸命にやった「見えない労働」が、結局誰にも評価されず、むしろ事故の遠因にすらなり得たという事実に、深い虚しさと絶望感を覚えた。病室の静寂が、彼女の心を重く締め付けた。
田中は、陽菜が入院したことで、日報に「カヤックのメンテナンスは全て自分が行った」と虚偽の報告をしていた。それを知った陽菜は、虚無感に襲われ、何も言えなくなった。自分がしてきたことは、一体何だったのだろうか。窓の外の青空を、ただ虚ろに見つめるしかなかった。