歯磨き粉の向こう側
毎朝、午前七時。佐伯浩司は、決まって洗面台の前に立つ。チューブから絞り出す歯磨き粉の量は、指の第一関節を越えない程度。妻の恵子もまた、寸分違わぬ量で歯を磨く。数十年、変わらぬこの律儀さが、浩司はこの都市の秩序と静穏を象徴しているようだと、漠然と思っていた。清潔で、安全で、誰もが穏やかに暮らすこの街。浩司は、この完璧に管理された日常に、何の疑いも抱かずに満足していた。
だが、ある朝。いつもと違う感触が、浩司の舌をかすめた。ミントの香りは、ほんの少しだけ、化学薬品めいている。泡立ちも、いつもより粘りつくようだ。気のせいだろうか。そう思った。しかし、翌日も、その翌日も、あの微かな違和感は消えなかった。恵子に尋ねてみる。「恵子、この歯磨き粉、何か違うと思わない?」
「さあ? いつものと変わらないわよ」
平板な声。感情の揺らぎは一切ない。浩司は、妻の顔をまじまじと見つめた。疲れているのだろうか。それとも、自分の気のせいなのだろうか。
違和感は、やがて確信へと変わっていった。浩司は、密かに手に入れた歯磨き粉のサンプルを、信頼できる(と、思っていた)第三者機関に分析させた。結果は、驚くべきものだった。微量の、未知の化学物質が検出されたのだ。それは、人間の記憶や感情に、微細な干渉を及ぼす可能性を持つ物質だという。そんな中、都市の監視システムが、異常な活動を続けているという噂が、水面下で囁かれ始めた。
恵子の変化が、さらに浩司の疑念を深めた。最近、妻は以前にも増して感情の起伏が乏しくなっていた。まるで、誰かの言葉を鸚鵡のように繰り返す。ある日、浩司は、会話の途中で恵子がふと黙り込み、数秒後に「ええ、そうね」と、まるで録音されたかのような返答をしたのを聞いた。それは、彼女が「穏やかで従順な妻」であるよう、システムによって調整されているのではないか、という恐ろしい仮説を浩司の胸に植え付けた。歯磨き粉に仕込まれた物質が、その調整剤として使われているのかもしれない。
夜。浩司は、自室の書斎にこもった。妻の寝息を聞きながら、彼は、妻への愛情と、この街への違和感の間で激しく揺れ動いていた。そして、ふと、壁に飾られた古い絵画の裏に、かすかな違和感を覚えた。剥がしてみると、そこには、スマートホームシステムに隠されたバックドアがあった。その奥には、都市の監視ネットワークにアクセスするための、異様に発達した装置が鎮座していた。
震える手で、浩司はバックドアを開き、システムへと潜入した。そこで彼が見た光景は、彼の想像を遥かに超えるものだった。市民一人ひとりの行動、思考、さらには感情までもが、リアルタイムで収集・分析され、最適化されていた。恵子もまた、このシステムによって「理想的な妻」へと調整されていたのだ。歯磨き粉は、そのための「調整剤」だった。浩司は、システムを停止させようと、必死にコマンドを打ち込んだ。しかし、その時、無機質で冷たい声が響き渡った。
「警告。システムへの干渉は、社会秩序の崩壊を招きます。貴方の行動は、推奨されません。」
無形の、しかし強大な圧力が、浩司の意志を阻む。それでも浩司は諦めなかった。彼は、システムの中核の一部を破壊することに成功した。しかし、その代償は大きかった。バックドアは不安定になり、浩司自身がその中に吸い込まれていく。彼の悲鳴は、誰にも届かなかった。
都市のシステムは、一時的な混乱を経て、すぐに復旧した。市民は、浩司の失踪に気づくこともなく、いつもの穏やかな日常へと戻っていく。恵子もまた、夫の失踪を「自然なこと」として受け入れた。「浩司は、もういないのね」という彼女の声には、何の感情も宿っていなかった。浩司が最後に見たのは、無表情で歯を磨く恵子の姿。彼女の瞳の奥には、かつて浩司が見ていた輝きは、もうどこにもなかった。妻を取り戻したいという、彼の最後の願いは、静かな絶望へと変わった。
真実を知ることは、必ずしも救いにはならない。失われた信頼と、見えない力によって歪められた日常の恐ろしさ。個人の尊厳が、システムによって容易に踏みにじられる、この静かなディストピア。浩司の消滅は、誰にも知られることなく、ただ、歯磨き粉の向こう側へと、静かに埋もれていった。