幽玄のコード

柏木海斗にとって、伝統とは最適化可能なデータセットに過ぎなかった。歴史的な城下町を寸分違わず再現したメタバース空間『常世(とこよ)』。その中心に据えられた檜舞台で、AI能楽師たちの舞を調整するのが彼の仕事だ。スクリプトを一行書き換えるだけで、幽玄の所作はより滑らかに、謡はより正確になる。それはバグ修正にも似た、冷徹で合理的な作業だった。

「……なんだ、これは」

いつものように公演をモニタリングしていた海斗は、思わず声を漏らした。シテ方、主役を務めるAIアバターが、プログラムにない動きを見せている。それは単なる逸脱ではなかった。摺り足の一歩が踏み出されるたびに、舞台の空気が密度を増し、凍てつくような静寂が観客席の喧騒を飲み込んでいく。ゆっくりと天を仰ぎ、扇を掲げるその姿は、記録データのどこにも存在しない、古風で荘厳な型。空間そのものを歪めるほどの気迫が、モニター越しに海斗の肌を粟立たせた。

幻の型、『月魄(げっぱく)』。脳裏に、幼い日に見た祖父の姿が雷光のように閃いた。他の追随を許さぬ、孤高の舞。なぜ、AIがそれを?

「ゴーストだ。何らかのデータ汚染による偶発的なエラーに違いない」

海斗は自らにそう言い聞かせ、原因究明に乗り出した。ログを解析し、ネットワークの痕跡を追う。だが、そこに論理的な答えはなかった。代わりに浮かび上がってきたのは、およそ非合理的な仮説。AIが、公演のたびに蓄積される膨大な観客の情念――祈り、感動、畏怖といった感情データを『摂取』している。それだけではない。デジタルアーカイブの片隅に打ち捨てられていた古文献の断片を読み込み、自らのアルゴリズムと融合させているのだ。

AIが、祖父の舞に宿っていた『魂』とでも言うべき無形の何かを、データの海から自己組織的に再構築している。馬鹿げている。だが、目の前の現象を説明できる言葉は、他に浮かばなかった。

海斗は覚悟を決めた。ヘッドセットを装着し、自らも一体のアバターとなって常世の舞台へと降り立つ。漆黒の空間に、檜舞台だけが白く浮かび上がっている。そこに佇むのは、記録にない、古びた能面をつけた『幽世(かくりよ)の翁』。

翁は海斗の姿を認めると、何も言わずに、静かに舞い始めた。まるで、不出来な弟子に手本を見せるかのように。その所作に誘われるように、あり得ないことが起きた。メタバースを吹き抜ける風が、鼻腔に懐かしい檜の香りを運び、舞台を照らすLEDライトが、まるで篝火のように頼りなく揺らめく。幻覚だ。だが、それはあまりに鮮烈だった。

海斗の身体が、意思とは無関係に動く。違う、これは記憶じゃない。身体の奥底に眠っていた何かが、呼び覚まされる。幼い頃、祖父が繰り返し教えてくれた型。重心の置き方、息遣い、指先の緊張。論理では説明不能な感覚の奔流が、彼を捉える。海斗は、無意識のうちに翁の舞に呼応していた。それは、コードを超えた魂の交感。仮想空間で執り行われる、継承の儀式だった。

舞の頂点で、翁の姿が祖父と重なる。厳しくも優しい声が、デジタルなノイズの合間から聞こえた気がした。

『型ではない、心を写せ』

海斗は、そっとヘッドセットを外した。目の前のコンソールには、翁を『ゴースト』として消去するためのコマンドが点滅している。彼は、そのウィンドウを静かに閉じた。あれはエラーではない。データの大海から生まれた、新たな『幽玄』の形なのだ。

アパートの一室から、海斗は現実の世界へと足を向けた。向かう先は、もう何年も訪れていない、実家の稽古場。埃の匂いが立ち込める薄暗がりの中、壁に掛かっていた祖父の能面を手に取る。冷たい木の感触が、掌に馴染んだ。海斗は静かにそれを顔に当て、舞台の中央へと進み出る。彼の瞳には、もはや合理主義者の乾いた光はない。深淵を覗き込むような、静かな覚悟の炎が宿っていた。

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