盆の上の、琥珀色の秘密
夏の盆、盆提灯の柔らかな光が、古びた一軒家の廊下をぼんやりと照らしていた。佐伯健太は、書斎の窓辺に立ち、庭の草木が夕暮れの空にシルエットを描くのを眺めていた。三十代後半。長年の努力が実り、念願の昇格を目前に控えていた。はずなのに、祝うべきこの盆休みは、なぜか落ち着かない日々だった。
書斎の片隅には、亡き父・悟が愛飲していた、ラベルの擦れたウイスキーのボトルが静かに埃をかぶっている。その琥珀色の液体に、ふと、父の面影が重なる。寡黙だったが、いつも健太のことを気にかけてくれていた父。昇格が決まったと報告したかった。いや、報告したのだ。頭の中では。しかし、現実は、父の遺影に語りかけることしかできない。
「お父様、きっと喜んでいらっしゃいますね」
妻の陽子が、そっと健太の背後に立ち、声をかけた。その穏やかな声は、健太の心に温かく染み渡る。だが、父が本当に昇格を喜んでくれるだろうか。そんな漠然とした不安が、健太の胸をよぎった。盆という、どこか懐かしく、そして静謐な時期特有の空気が、昇格へのプレッシャーと、父への複雑な思いを、静かに、しかし確実に揺さぶっていた。
「ああ、そうだろうな」
健太は、曖昧に頷きながら、書棚に目をやった。父が使っていた書斎。そこには、父の愛用品や、読みかけの本が、そのままの形で残されている。ふと、一番奥の棚に、見慣れない革装丁の本があるのに気づいた。手に取ってみると、それは父の古い日記だった。
ページをめくる。そこには、健太の幼い頃の記憶や、家族の些細な出来事が、父の筆跡で綴られていた。そして、健太が学生だった頃、父が昇格に悩んでいたこと、仕事の苦労を、ウイスキーグラスを傾けながら綴っていた記述もあった。
「…いつか、お前が一人前の男になったら、このボトルを開けよう」
日記の端に、そう記されていた。それは、健太がまだ幼かった頃、父がふと漏らした言葉だった。健太は、その言葉の意味を、ずっと誤解していたのかもしれない。昇格という、目に見える成功だけを追い求めて、父が本当に伝えたかったことを見失っていたのではないか。父が本当に望んでいたのは、成功そのものではなく、困難を乗り越える強さ、そして、家族を大切にすることだったのだ。
健太は、書斎にあった父のウイスキーのボトルを手に取った。ずしりとした重み。琥珀色の液体が、夕陽を浴びて、温かく、そして力強く光っている。その光の中に、父の温かい眼差しを見た気がした。
健太は、陽子と共に、父の仏壇に向かった。線香の煙が、静かに立ち上る。健太は、父のウイスキーのボトルを手に取り、グラスに静かに注いだ。琥珀色の液体が、グラスの中で揺らめく。
「父さん」
健太は、グラスを手に取り、静かに啜った。喉を通り過ぎる、芳醇で、少しばかりほろ苦い液体。それは、父の温かい眼差し、昇格への新たな決意、そして、何よりも家族への感謝の味がした。
「ありがとう、父さん」
健太の呟きは、静かな部屋に吸い込まれていった。グラスに残ったウイスキーが、夕陽にきらりと輝く。健太は、父と共に歩んでいるような、温かい気持ちになっていた。昇格という目標は、まだ目の前にある。だが、その目標だけではない。人生の本当の豊かさ、見えない絆の強さを、今、健太は確かに感じていた。それは、盆の上の、琥珀色の秘密だった。