紅葉の啓蒙
都市の喧騒から遠く離れた山奥に、佐伯悠真はいた。若き考古学者である彼は、啓蒙時代に書かれたとされる不可解な文献の断片が、この人里離れた山荘で書かれたという説を追って、紅葉が最も美しいこの時期に訪れたのだ。山荘は、時の流れに抗いきれなかったかのように、荒れ果てていた。しかし、奇妙なことに、管理をしているらしい老婆が一人、静かに佇んでいた。
悠真は、この場所で、合理的な啓蒙思想と、それに反するような古い伝承とが、どのように混在していたのかに強い興味を抱いていた。窓の外に広がる紅葉は、彼の合理的な視点では説明のつかない、生命力に満ちた、しかしどこか不穏な赤色をしていた。それは、まるで山そのものが、悠真の訪れを訝しむかのように、燃えているかのようだった。
滞在中、悠真は奇妙な出来事に遭遇するようになった。夜になると、地鳴りのような轟音が響き渡り、山荘の壁に新たな亀裂が入る。書斎に広げた資料は、風もないのに勝手に散乱した。老婆は、そんな悠真の動揺をよそに、ただ静かに呟くだけだった。「山が怒っている」「啓蒙も、この紅葉の赤には敵わない」
悠真は、これらを地盤沈下や突風といった自然現象、あるいは老婆の老いた記憶の混乱だと合理的に説明しようと努めた。しかし、次第に、自身の合理的な説明では割り切れない、得体の知れない恐怖を感じ始めていた。老婆の言葉の「紅葉の赤」が、導入で感じたあの不穏な赤色と重なり、彼の揺るぎないはずの合理性を静かに侵食していく。
悠真は、滞在中、一心不乱に文献の解読を進めた。やがて、その文献が単なる思想書ではなく、この山に古くから伝わる、自然の猛威、例えば土砂崩れなどを鎮めるための「儀式」や「祈り」に関する記述であることを知った。啓蒙思想家は、合理性の追求の果てに、この古来の信仰と対峙し、それを否定しようとしたのではないか。悠真は、その推測に確信を深めようとした。だが、その代償として、彼は山の「怒り」を招いてしまったのではないかという、抗いがたい疑念が芽生え始めた。合理的な思考と、文献に記された神話的な記述との間で、悠真の心は激しく、そして静かに揺れ動いていた。
紅葉狩りの絶頂期、空は突如として暗転し、激しい雨が降り始めた。悠真が書斎で文献を読みふけっていると、轟音と共に山荘全体が激しく揺れた。窓の外の紅葉は、雨に打たれ、不気味なほど赤く燃え盛っているように見えた。それは、土砂崩れの予兆としか思えなかった。
外では、大規模な土砂崩れが発生していた。山荘は、その猛威の前に、崩壊の危機に瀕していた。老婆は、窓の外を静かに眺め、虚ろな目で微笑むと、静かに呟いた。「啓蒙は、この紅葉の赤に、そしてこの土砂に、意味を失う」
悠真は、合理性では到底太刀打ちできない自然の圧倒的な力と、それを鎮めようとした過去の思想家の、あまりにも儚い試みの虚しさを、ただ目の当たりにするしかなかった。
土砂崩れは、やがて収まった。しかし、山荘は半分土砂に埋もれてしまっていた。悠真は、老婆の姿を探したが、どこにも見当たらなかった。ただ、壁に刻まれた、古代の文字のような古い印と、血のように鮮やかな紅葉の葉が、風に舞う音だけが、静かに響いていた。
悠真は、自身の揺るぎないはずだった合理主義が、あまりにも脆くも崩れ去ったことを痛感した。理解不能な恐怖と、抗うことのできない自然の摂理に対する、深い畏敬の念を抱いたまま、一人、崩壊した山荘から立ち去る。山荘の周りには、不気味なほど鮮やかな紅葉が、静かに、そして悠然と広がっていた。それは、まるで山が、悠真に、そして人間という存在に、静かに微笑みかけているかのようだった。