隣家の窓、消えた約束
夏祭りの喧騒が、遠い波のように陽太の耳に届いていた。蝉の声はもう聞こえず、代わりに微かな線香花火の音と、人々の賑わいが、湿った空気に溶け込んでいる。陽太は、隣家の美咲の部屋の窓をじっと見つめていた。もうすぐ、約束の時間だ。今夜は、二人で浴衣を着て、あの丘の上まで行って、一緒に花火を見るはずだった。
「来年も、一緒に花火を見ようね」。
幼い頃、美咲と交わした約束。あの時の、キラキラした彼女の笑顔が、陽太の心に焼き付いていた。毎年、夏が来るたびに、その約束を思い出す。そして、今年も、美咲と一緒に行ける。そう信じて、陽太は今、この場所で彼女を待っていた。
窓の向こうには、明かりがついている。美咲の部屋だ。普段なら、もう浴衣に着替えて、鏡の前で髪を結っている頃だろうか。陽太の胸は、期待と、それからほんの少しの不安で、小さく波打っていた。なのに、窓の外には、美咲の姿が見えない。ただ、カーテンの隙間から漏れる光が、部屋の様子をぼんやりと映し出しているだけだ。
「美咲…?」
陽太は、かすかに呟いた。何か、言いようのない違和感。まるで、そこにいるはずの美咲が、どこか遠くへ行ってしまったような、そんな空虚感。その時、陽太の目に、窓辺に佇む、淡い光を纏った美咲の姿が映った。いつもの、明るい笑顔の美咲だ。いや、でも、それは…。
「…美咲、いるの?」
陽太は、吸い寄せられるように、隣家のインターホンに手を伸ばした。ピンポーン、と軽やかな音が響く。しばらくして、ドアが開いた。そこに立っていたのは、美咲の母親だった。いつものように優しい笑顔だが、その瞳の奥には、深い悲しみが宿っているように見えた。
「美咲ちゃん、お祭りの約束、してたんだ。一緒に行けるかなって…」
陽太の言葉に、母親は静かに、しかし、はっきりと告げた。
「陽太くん…美咲は、もう、この家にはいないのよ」
その言葉の意味が、陽太にはすぐに理解できなかった。いない? どういうことだろう。祭りの準備をしているとか、そういうことだろうか。母親の顔には、陽太への同情と、説明しきれない切なさが滲んでいた。
母親は、静かにリビングへと陽太を招き入れた。そして、一枚の写真を取り出し、陽太の前に置いた。それは、幼い頃の陽太と美咲が、満面の笑みで写っている写真だった。隣に並んで、二人が指をさしているのは、色とりどりの花火。あの時の、約束の場所だ。
「美咲はね、陽太くんが小学校を卒業する前に、病気で…亡くなってしまったの」
母親の言葉は、静かだが、確かな重みを持って陽太の胸に突き刺さった。亡くなった? 何を言っているんだ? 陽太の頭の中は、混乱していた。いや、違う。窓辺にいた美咲は、確かにそこにいた。あの、祭りの浴衣を着た、キラキラした美咲が…。
「陽太くんが、美咲に会いたいって、強く願ったから…記憶の中の美咲が、陽太くんの前に現れてるだけなのよ」
母親は、そう言って、優しく陽太の肩に手を置いた。激しい失望が、陽太の全身を駆け巡った。目の前が、真っ暗になるような感覚。祭りに向かうはずだった、あの美咲は、もうどこにもいない。陽太が、本当の美咲だと思い込んでいた、あの笑顔は、ただの幻だったのだ。
「…ずっと、好きだったんだ、美咲のこと」
陽太は、幻影の美咲に向かって、普段は決して言えない、心の奥底からの言葉を叫んだ。声が震え、涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
祭りの喧騒が、再び陽太の耳に届いた。もう、美咲はいない。隣家の窓は、今はもう暗くなっている。失われた約束。そして、幻影の美咲との、あまりにも切ない、最後のやり取り。それらが、陽太の胸を締め付けた。
ふと、陽太は、夜空に咲く花火を見た。その光の中に、幻影の美咲の、いつもの笑顔が浮かんだ気がした。陽太は、その笑顔に、静かに、小さく微笑み返した。胸には、まだ消えない痛みが残っている。それでも、陽太は、一人、祭りの人混みの中を歩き出した。失われたものへの悲しみと、それでも、生きていかなければならないという、静かな決意を胸に抱きながら。夕闇が、陽太の背中を優しく包み込んでいった。