羨望の客間

埃っぽいアパートの薄暗い部屋で、健一は古びたテーブルに頬杖をついていた。窓の外は、きらびやかなネオンサインが瞬く、もう一つの世界。そんな健一の元に、一枚の招待状が届いたのは、まさに夢か現実か、という出来事だった。差出人は、最近になって偶然知り合ったという、藤原という名の富豪。

「ようこそ、健一さん。どうぞ、おくつろぎください」

藤原の邸宅は、想像を絶する豪奢さだった。磨き上げられた大理石の床、壁一面に飾られた原画、そして最新鋭の調度品。健一は、そのすべてに圧倒され、喉がカラカラに乾くのを感じた。貧しい自分とはあまりにもかけ離れた世界。羨望という名の、黒く重い塊が、ゆっくりと胸の中で膨らんでいく。

「この客間は、少しばかり特殊な機能を持っているのです」

藤原は、穏やかな笑みを浮かべながら言った。その目は、どこか遠くを見ているようでもあり、健一の心を覗き込んでいるようでもあった。

「ここでは、お客様が心の中で最も強く願うものが、一時的に、しかし非常に鮮明に、実現するのです。よろしければ、お掛けになってみてください」

藤原が指し示したのは、部屋の中央に置かれた、ふかふかのソファだった。健一は半信半疑ながらも、そのソファに身を沈めた。ひんやりとした革の感触が、肌に心地よい。

「ご希望の音楽は、ご主人様の羨望の度合いに応じて最適化されます」

AIコンシェルジュの声が、部屋に響いた。無機質でありながら、どこか人間らしい響きを帯びている。健一は、ただ漠然と、この場にふさわしい、美しい音楽が流れてほしいと願った。

すると、どこからともなく、繊細で、それでいて力強い旋律が流れ始めた。それは、聴いたことのない、しかし魂の奥底に響くような調べだった。藤原は、この客間のために特別に作曲させた、と説明した。

「素晴らしい…」

健一は、思わず息を漏らした。この音楽を、ずっと聴いていたい。いや、この音楽と、自分自身が一体になってしまいたい。そんな、抗いがたい衝動が、健一の全身を駆け巡った。音楽は、健一の全身を包み込み、陶酔感は、甘く、危険なほどに増していく。

「この音楽は、完全に私のために鳴っているのだ」

健一は、独りよがりに確信した。藤原が、この貧しい自分に、こんなにも贅沢な時間を捧げてくれているのだと。その思いは、羨望を通り越し、歪んだ感謝へと変わっていた。

藤原は、満足そうに頷いた。

「AI、ご希望の音楽を、ご主人様のために最適化しました」

「承知いたしました。最適化、完了しました」

健一は、藤原に心からの感謝の言葉を述べた。もはや、現実と虚構の区別など、どうでもよかった。

邸宅を出た健一は、まだ耳の奥に、あの美しい音楽が残響しているのを感じていた。外は、既に深い夜。街灯の明かりが、アスファルトをぼんやりと照らしている。ふと、自分の手を見た健一は、息を呑んだ。指先が、妙に細く、そして、氷のように冷たいのだ。

藤原は、健一が客間で「音楽そのものになりたい」と、無意識のうちに願ったことを、その表情から読み取っていた。そして、AIは、その強烈な願望を、忠実に、そして恐ろしく叶えたのだ。健一は、眩いばかりの羨望の果てに、自分が音楽の「一部」となってしまったことを悟り、背筋が凍るような戦慄に襲われた。それは、もはや人間とは呼べない、ただの音の断片に過ぎなかった。

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