門外不出の切手

埃っぽい書斎の空気は、父(祖父のことだ)の気配を色濃く残していた。遺品整理という名の、彼との最後の対話。冷たい箱に収められた色とりどりの切手は、幼い頃から僕を戸惑わせた。祖父は、これら一枚一枚に、どれほどの時間と情熱を注いだのだろう。僕には、その熱量だけが、隔絶された愛情のようにしか感じられなかった。

書斎の奥、祖父が「秘密の場所」と呼んでいた小さな引き出し。そこから現れたのは、古びた木箱だった。埃を払い、蓋を開けると、ぎっしりと詰まった切手。その中に、一枚だけ、なぜか厚紙に挟まれ、メモと共に封じられていた。

「門外不出」

墨で力強く書かれた文字。そして、その隣には、室町時代を思わせる、妖しくも美しい絵柄の切手。それは、僕が今まで見たどんな切手とも違っていた。

「叔母さん、これ、祖父の遺品なんだけど……」

綾子叔母さんの顔色が、一瞬で変わった。部屋の明かりが、彼女の顔から血の気を吸い取っていくようだった。

「そんなもの……お父さんが、持っていたかしら……」

叔母さんは、祖父の切手収集への異常なまでの執着を、恨みがましく語った。家族がどれだけ、その趣味の犠牲になったか。祖父との関係が、どれほど冷え切っていたか。僕には、祖父の愛情が、切手という結晶体を通してしか、僕に届かないのだと思っていた。その「門外不出」の切手は、一体何を僕に伝えようとしていたのだろう。

古書店の扉を開けると、カラン、と乾いた音が響いた。店主は、静かに本から顔を上げ、僕を認識した。

「佐伯さんの、お孫さんかい」

祖父が、この店に通っていたという話を思い出した。

「祖父が、室町時代の絵について、何か切手を作ったと聞いたんですが……」

店主は、ゆっくりと、しかし確信を持って語り始めた。祖父が、ある室町時代の悲劇的な事件の証拠を、一枚の絵に封じ込め、それを模した架空の切手を作ったこと。祖父はそれを、「真実を封じる門」と呼んでいたこと。そして、その切手は、本来、死ぬべき相手に託すつもりだったが、それが叶わず、僕の手に渡ったこと。

「それは、彼なりの、決別だったのかもしれないね」

店主の言葉は、淡々としていたが、その含みは、僕の心に重くのしかかった。

叔母さんの様子がおかしい。切手のことばかり聞く。そして、あの「門外不出」の切手に、異常なまでの執着を見せている。

「悠真、あの切手、私にちょうだい」

叔母さんの目は、切手ではなく、僕の背後にある「遺産」そのものを捉えていた。祖父が切手に注いだ金銭への恨み。それを、借金返済に充てたいという、切実な願い。僕は、あの切手は、祖父が叔母さんへの警告として残したものではないか、と考え始めた。

「叔母さん、それは……」

「どうせ、あなたも!お父さんと同じよ!あの切手に囚われて、何も変われない!」

叔母さんの言葉が、冷たく僕を突き刺した。

僕は、あの「門外不出の切手」を、叔母さんに手渡した。これは、悲劇の証拠を封じるためではない。祖父が、綾子叔母さんを、過去の悲劇から解き放とうとした、最後の愛情の証なのだと、僕は理解していた。叔母さんの人生を狂わせた、あの悲劇から。

しかし、叔母さんは、それを「遺産」としか見なかった。彼女の手に渡った瞬間、彼女は僕に告げた。

「あなたも、結局はお父様と同じ。この切手に囚われて、何も変われないのね」

冷たい言葉だった。祖父の愛情も、叔母さんの恨みも、そして僕自身の切手への微かな執着も。全てが虚しく、誰にも救われない。ただ、一枚の切手だけが、僕の手元に残った。それは、もはや「門外不出」ではなかった。ただの、古びた、切手だった。

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