廃墟カラオケ~歯磨きは魂の叫び~
毎朝6時30分。佐藤健太は、決まった時間に、決まった歯ブラシを手に取る。キュッキュッキュッ、ピカピカ。それは、社会の歯車として、ただひたすらに時を刻む日々の、数少ない「儀式」であり、感情の波を鎮めるための、ささやかな防壁だった。歯ブラシが歯茎を擦るたびに、虚無感がじわりと染み出してくる。今日もまた、どこかの誰かに都合の良いように、歪められ、磨り減らされていくのだろうか。
そんな健太の日常に、突然、同僚の田中陽子が風のように現れた。
「佐藤さん、週末、超ディープな場所、行かね?」
陽子の声は、けたたましく、そしてどこか浮いていた。健太は訝しむ。「ディープって…なんだよ、それ。なんか、ヤバい店とか?」
陽子は、キラキラした目で健太を見つめる。「いやいや、そんなんじゃなくて!もっとこう、こう…」言葉を探すように、彼女は宙を掴む。「とにかく、行ってみたら分かるって!」
健太は、普段なら「勘弁してくれ」と一蹴するところだが、その日は妙に心が揺れた。日々のルーティンに、もううんざりしていたのだ。陽子の掴みどころのない誘いに、ほんの少しだけ、日常からの逃避を期待してしまった。渋々、彼は頷いた。
連れてこられたのは、街外れの、かつては熱気に満ちていたであろう、今は見る影もなく朽ち果てた廃墟のカラオケボックスだった。夕暮れの光が、割れた窓ガラスから差し込み、埃の粒子を金色に照らし出している。カビと埃の混じった、独特の匂いが鼻をついた。
「…なんだ、ここ。こんな所に来て、何するんだよ」健太は、思わず愚痴が漏れる。
陽子は、まるで宝物でも見つけたかのように目を輝かせた。「だって、なんか、こう、エモいじゃん?インスタ映え的な?」
健太は、陽子の言葉に、さらに虚無感を覚えた。彼女の「エモい」は、一体、何に感動しているのだろうか。健太の抱える、このどうしようもない虚無感とは、全く違う次元の、軽薄な感情に思えた。
陽子は、健太の戸惑いをよそに、無理やり一室へと押し込んだ。そこは、時代に取り残されたような、古びたカラオケルームだった。壁紙は剥がれ落ち、ソファの合皮もひび割れている。それでも、なぜか、マイクはしっかりとした佇まいを保っていた。
「歌おうよ!ストレス発散!」陽子は、半ば強引にマイクを健太に渡した。
健太は、虚無感と、この場に対する嫌悪感に駆られ、衝動的に、自分の日課である歯磨きの歌を歌い始めた。
「♪キュッキュッキュッ、ピカピカ、今日も一日頑張りました…」
その歌声は、あまりにも場違いで、そしてあまりにも、彼自身の現状を物語っていた。陽子は、呆れ顔で健太を見つめていたが、その歌声に隠された、社会への不満や、どうしようもない諦めといった「本音」に、なぜか引き込まれていく。それは、陽子自身が、無意識のうちに抱えていた、この退屈な日常への空虚さの表れでもあったのかもしれない。
健太の歯磨きソングは、次第に感情を帯びていった。もはや、ただの歌ではなかった。それは、社会の歯車として生きる自分への、密かな反抗であり、自己肯定のための、魂の叫びだった。廃墟の埃っぽい空気に響き渡る健太の歌声に、陽子は、不意に涙ぐんだ。
すると、どこからともなく、一人の老人が現れた。痩せた体躯で、煤けた作業服を着ている。彼は、静かに健太の歌を聴いていたが、ふと、絞り出すような声で呟いた。
「…その歯磨き、魂がこもってるな」
その一言は、健太の予想を遥かに超えたものだった。虚無感で塗り固められた彼の心に、予想外の「肯定」が、静かに、しかし確かに響いた。
健太は、老人の言葉に、ただただ驚いていた。陽子もまた、廃墟のカラオケで、歯磨きの歌に感動し、涙を流す自分自身に、戸惑いを隠せないでいた。
健太は、マイクをぎゅっと握りしめ、もう一度、歯磨きの歌を歌い始めた。それは、もはや虚無の歌ではなかった。社会へのささやかな抵抗であり、自分自身への、静かな肯定の歌だった。廃墟のカラオケで、歯磨きだけが、彼の魂の唯一の叫びだった。
健太は、廃墟を出た後、いつものように自宅への道を歩いていた。しかし、その足取りは、いつもよりほんの少しだけ、軽やかな気がした。明日もまた、彼は歯を磨くだろう。だが、その歯磨きは、今日とは、ほんの少しだけ違う響きを持っているのかもしれない。