カヤックに映る幽霊
夏の終わりの湖畔は、どこか寂しげな空気に包まれていた。静かなキャンプ場に、健太は一人、テントを張っていた。亡くなった恋人、美咲との最後の思い出の場所。二人でカヤックに乗った、あの日の湖面が、今は鏡のように静まり返っている。夏の熱はとうに去り、肌寒ささえ感じる風が、健太の心を一層冷たくした。美咲への募る未練が、湖面の寂寥感と重なり、健太の胸を締め付けた。
夜になり、焚き火の炎が健太の顔を照らす。暗闇の中で、健太は美咲の写真を見返していた。一枚の写真。それは、美咲とカヤックに乗った時のものだった。楽しそうに笑う美咲の隣で、自分も無理に笑顔を作っている。写真の奥、湖面にぼんやりと、しかし確かに美咲の姿が映り込んでいるように見えた。いや、気のせいではない。写真の端に写る水面の揺らめきが、まるで彼女がこちらを見ているかのようだ。健太は背筋に冷たいものが走るのを感じた。恐怖と同時に、美咲に会いたいという、抑えきれない未練が、再び胸の奥から湧き上がってきた。
翌朝、健太は恐る恐るカヤックに乗り込み、湖へ漕ぎ出した。写真の時と同じように静かな湖面。無意識のうちに、美咲の姿を探してしまう自分がいた。湖面を渡る風が、美咲の声のように聞こえる気がした。そんな時、携帯電話が鳴った。友人、涼子からだった。「健太、大丈夫?いつまでも過去に囚われていたらダメだよ」涼子の声は、いつものように現実的で、少し強引だった。しかし、健太は彼女の言葉に耳を貸そうとしなかった。美咲との思い出から離れられない自分を、正当化する言葉ばかりが頭を巡る。「だって、俺はまだ、美咲のことを…」言葉に詰まる健太に、涼子はため息をついた。
カヤックを漕ぎ進めるうち、湖上から美咲の声が聞こえたような気がした。幻聴か、それとも未練のなせる業か。そんな考えが頭をよぎった、その時。湖面が突如、写真で見た時と同じように、さざ波を立て始めた。そして、波の中から、美咲の姿がはっきりと現れた。あの頃と変わらない、優しい笑顔で、美咲は健太に語りかけた。「もう、大丈夫だよ」健太は、写真の違和感と、この幻影が、自分の「会いたい」という強い未練が生み出したものだと悟った。しかし、その声と姿に、健太は恐怖よりも、彼女への感謝の念を強く感じていた。そして、もう彼女を苦しめない、という決意を固めた。
健太は、震える声で美咲に向かって叫んだ。「美咲!ありがとう!もう、大丈夫だ!君のことは、ずっと忘れない!」その叫びは、美咲への感謝の言葉であり、彼女に伝えきれなかった「君のいない人生を歩んでいく」という決意の言葉だった。健太の言葉に、美咲の姿は湖面に溶けるように消えていった。湖面は再び静寂を取り戻した。健太は、涙を流しながらも、心の底からの解放感と、美咲との思い出を宝物として胸に抱きしめる満足感に包まれていた。まるで、重い鎖が解き放たれたかのような心地よさだった。
健太は、カヤックを岸に引き上げた。携帯電話には、涼子からの着信履歴が数件残っている。健太は、美咲との別れを乗り越え、これからの人生を歩んでいく覚悟を胸に、涼子に短いメッセージを送った。「ありがとう。もう大丈夫だよ」湖畔には、秋の気配が静かに漂い始めていた。健太の顔には、吹っ切れたような、穏やかな表情が浮かんでいた。湖面は、ただ静かに、夏の終わりを告げていた。