冬の軌道
冬の夜は、身に染みる寒さだった。北風が窓ガラスを叩く音が、やけに大きく響く。佐藤健太は、冷え切った体を擦りながら、マンションのドアを開けた。午後10時を過ぎている。今日もまた、終電間際の帰宅だった。
リビングの明かりは点いていたが、妻の陽子の姿はない。テーブルの上には、一人分の鍋が残されていた。湯気はもうほとんど消えている。健太は無言でそれをコンロにかけ、弱火で温め直した。鍋の中身は、健太の好みに合わせた、少し濃いめの豚バラと白菜の鍋だった。陽子が、健太の帰りが遅くなることを想定して作ってくれたのだろう。だが、その優しさが、今は重くのしかかる。
一人、鍋をすすりながら、健太は窓の外の暗闇を見つめた。街灯の明かりが、雪のように舞う粉雪をぼんやりと照らしている。そんな光景を眺めているうちに、鍋は空になった。洗い物もせず、健太はソファに沈み込んだ。疲労感が、全身を包み込む。
どれくらいそうしていただろうか。玄関のドアが開く音がした。陽子だ。健太はソファから立ち上がり、キッチンに向かった。
「遅かったね」
健太の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「ごめんね、ちょっと友達と長話になっちゃって」
陽子は、いつものように明るく振る舞おうとしたが、その声には隠しきれない疲労感が混じっていた。健太は、陽子の顔をまじまじと見つめた。最近、陽子の顔には、以前のような輝きが失われているように感じられた。そして、スマホを手に取る仕草、電話に出る際に少し離れる様子。それは、健太が以前から感じていた、漠然とした違和感の正体だった。
二人の間に、重たい沈黙が流れた。健太は、陽子が何かを隠しているような気がしてならなかった。その不安が、冬の寒さのように、じわりじわりと心を蝕んでいく。
「何してたの?」
健太は、努めて平静を装って尋ねた。
「別に、なんでもないよ」
陽子は、視線を合わせようとせず、早口で答えた。その曖昧な返事に、健太の胸のざわつきは一層強くなった。
それから数日、健太は陽子の様子に、ますます違和感を覚えるようになった。陽子は、以前にも増してスマホを触る時間が増え、時折、リビングから離れた部屋で、小声で話し込んでいることもあった。外出も、以前より頻繁になった。健太は、陽子に問い詰めることもできず、ただ不安を募らせるばかりだった。仕事の合間、ふと冷蔵庫を開けると、そこには陽子が一人で食べるために買ってきたであろう、小さなアイスクリームが一つ、冷たくなっていた。健太は、そのアイスクリームを手に取り、窓の外を見た。夜空には、人工衛星が静かに軌道を描いているのが見えた。それは、まるで、二人の関係のように、互いの存在を認識しながらも、決して交わることのない、冷たい軌道を描いているかのようだった。
ある晩、陽子がうっかりスマホをリビングに置き忘れてしまった。健太は、ソファに座りながら、ふと目にしたスマホの画面に、見知らぬ男性の名前があるのを見つけてしまった。その瞬間、健太の心臓は激しく脈打った。嫉妬と怒り。そして、陽子を追い詰めていた自分への、言いようのない罪悪感。意を決して、健太は陽子に話しかけた。
「陽子」
健太の声に、陽子はびくりと肩を震わせた。
「何があったんだ?」
健太の問いに、陽子の目から大粒の涙が溢れ出した。陽子は、昔の恋人から連絡があったこと、そして、健太との将来に不安を感じていたことを、ぽつりぽつりと話し始めた。健太は、ただ黙って、陽子の言葉に耳を傾けた。
「ごめんね、健太。不安にさせて…」
「俺も、悪かった。もっと、ちゃんと話を聞けばよかった」
二人は、互いの気持ちを正直に伝え合った。健太は、陽子を不安にさせていたことを謝罪し、これからはもっと向き合っていきたいと伝えた。陽子も、健太を心配させていたことを詫びた。
鍋の残りに、二人は向かい合って座った。しかし、視線は時折、宙をさまよう。アイスクリームは、まだ少し残っている。二人の関係が、すぐに元通りになるわけではないだろう。それでも、また一緒に歩き出すための、小さな一歩を、確かに踏み出した。窓の外では、変わらず星が瞬いていた。その光は、まるで、二人の未来を静かに見守っているかのようだった。