氷上の幽霊
人工的な氷床に覆われた月面都市。その静寂の中、アキラはスケートボードのデッキに立っていた。記憶は、いつからか、ここにあった。ただ、滑る。氷床を覆う夜空には、星々が冷たく瞬いている。時折、氷の表面に映る、歪んだ帆の影。そして、脳裏に蘇る「ヨット」という響き。それが何を意味するのか、アキラには分からなかった。
世話役のエマが作る天ぷらは、いつも熱々で香ばしかった。クリスピーな衣を噛みしめるたび、アキラの五感は微かなざわめきに包まれた。潮の香り、風を切る音、そして、誰かの切ない声。まるで、遠い記憶の残響。街を歩けば、誰かの視線を感じる。振り返っても、そこには誰もいない。ただ、肌を撫でるような冷気だけが、背筋を這い上がった。
ある日、謎の男がアキラに近づいてきた。その目は氷のように冷たく、抑揚のない声で、アキラの過去の「実験」について仄めかした。「君は、多くのものを失った。だが、それ以上に、得たものもあるはずだ」男はそう言って、静かに嘲笑った。アキラは、スケートボードに飛び乗った。氷床を疾走しながら、失われた記憶の断片を必死に追いかける。ヨットの映像が、感覚として、鮮明になっていく。波のしぶき、帆をはらむ風、そして、歓声。
いつからか、アキラは理解していた。自分がかつて、地球で、ヨットレースの選手であったことを。そして、この月面都市での「記憶保持実験」の被験者となっていたことを。男の言葉の端々から、彼がその実験に深く関わっていたことが伺えた。エマは、アキラの過去を知る、数少ない協力者の一人だったのだ。
アキラは、失われた記憶の断片と、静かに向き合った。それは、もはや恐怖の対象ではなかった。月面都市での新たな「滑走」への意志が、静かに芽生えていた。彼はスケートボードに乗り、広大な氷床を、ゆっくりと、しかし確かな意志をもって滑り始めた。スケートボードの刃が氷を削る、乾いた音が、宇宙の静寂に溶けていく。風の感触だけが、唯一の、確かな現実だ。エマは、都市の窓辺から、その姿を静かに見守っていた。謎の男は、もうどこにもいなかった。
月面都市の静寂の中、スケートボードの滑る音だけが響く。失われた過去の断片は、もはや重荷ではない。ただ、滑る。風の感触だけが、確かな現実だ。その先に何があるのか、誰にも分からない。それは、アキラ自身の、新たな航海だった。