平成最後の窓拭き、そして空
平成最後の日の昼下がり。東京の空は、どこまでも高く、そしてどこまでも澄み渡っていた。佐藤健太は、地上数百メートルの高さを、まるで空を散歩するかのように、軽やかに、しかし慎重に、ビル壁面を移動していた。彼の仕事は、この摩天楼の窓を磨き上げること。無数の窓ガラスは、地上では見ることのできない、もう一つの東京の空を映し出していた。
「おい、佐藤!相変わらず、悠長なもんだな!昔の『やらかし』を、この高さから見下ろして、反省でもしてるのかい?」
背後から、同僚の田中玲子の声が飛んでくる。健太は、いつものように、おどけた調子で振り返った。
「なんだよ、田中さん!俺だって、この景色に免じて、ちょっとばかり感傷に浸ってるんだぜ?ほら、平成ももうすぐおしまいだ。この窓だって、次の時代に『お前、まだいたのかよ』って、驚く顔を想像しながら、ピカピカにしてやってんだ」
健太は、そう言ってニヤリと笑った。その笑顔は、どこか無理をしているようにも見えた。窓の外に広がる街並みは、夕暮れを迎えようとして、茜色に染まり始めていた。それは、終わりゆく時代への、名残惜しいような、しかしどこか寂しげな光景だった。
「はいはい、ご苦労さん。でも、あんまり感傷に浸りすぎると、足元がおぼつかなくなるよ」
玲子の言葉に、健太は小さく頷いた。彼女は、健太の軽口の裏に隠された、拭いきれない過去の影を、いつだって見抜いているようだった。
休憩のため、ゴンドラに腰を下ろした時だった。健太は、ふと、遠くの窓の外に目をやった。その視線の先、ひときわ重厚な、威厳ある建物が目に入った。裁判所。今日、そこで、自分が人生で最も後悔している、あの事件の判決が下されることを、健太は思い出した。
『…本日、〇〇地方裁判所にて、午後3時より、被告人、佐藤健太に対する判決公判が開かれます…』
耳慣れない、しかし聞き覚えのあるアナウンスが、携帯ラジオから静かに流れてきた。ニュース速報。それは、健太の心臓を、鈍く、しかし確実に締め付けた。
「…健太?どうしたの?顔色が悪いよ」
玲子の心配そうな声に、健太はハッと我に返った。動揺を隠そうと、必死で平静を装う。
「いや、なんでもねえよ。ちょっと、風が冷たくてな」
「嘘をつかないで。…あの、裁判のこと、気にしてるんでしょ?」
玲子の真っ直ぐな問いに、健太は言葉を詰まらせた。逃げ場はない。彼は、ゆっくりと、しかし訥々と、語り始めた。なぜ、彼はこの高層ビルの窓拭きという、危険で、そしてどこか孤独な仕事を選んだのか。それは、過去から逃れるための、精一杯の言い訳でもあった。あの日の過ちが、彼をこの空高く、しかし地上から遠く離れた場所へと、押しやっていたのだ。
その時、ラジオから、さらに重々しい声が響いた。
『…判決。被告人、佐藤健太に、懲役〇年、執行猶予〇年を宣告する』
健太の耳に、その言葉が届いた。それは、彼が予想していたような、冷たい断罪の響きではなかった。むしろ、「生きろ」と告げるような、温かい、救済の響きに聞こえた。過去のトラウマ――「もう一度、やり直せ」という、あの声が、その言葉に重なった。
健太は、窓の外に広がる、夕暮れに染まる東京の街並みを見下ろした。平成という時代が、静かに終わりを告げ、新しい時代が、その扉を静かに開けようとしていた。窓ガラスに映る自分の顔は、まだ迷いを抱えている。しかし、裁判官の声、玲子の心配そうな顔、そして目の前に広がる、未来への希望が、健太の背中をそっと押した。
彼は、過去の過ちと向き合い、未来へ進むための、自分自身の「判決」を下すことを決意した。それは、窓を磨き上げるように、自らの心を洗い流す決意だった。
「田中さん」
健太の声には、以前のような自虐や強がりはなかった。確かな決意が宿っていた。
「俺、これから、ちゃんとやろうと思います。過去と向き合って、ちゃんと、生きていきます」
玲子は、健太の晴れやかな笑顔を見て、静かに微笑んだ。
「ええ。応援してるわ」
健太は、高層ビルの窓を、一本の筋もなく、隅々まで綺麗に磨き上げた。磨き上げた窓に映る夕焼け空は、まるで新しい時代への希望そのもの。健太は、その空に向かって、小さく、しかし力強く、頷いた。