最後の晩餐

交通事故。その報せを聞いた時、佐藤恵子の顔には何の感情も浮かばなかった。夫、健一の死。彼女はただ、静かに葬儀の準備を進めることにした。遺品整理を始めたのは、その数日後だった。健一が愛用していた、重厚な装飾が施された食器棚。その中には、趣味の悪い、しかし異様に高価な食器が並んでいた。裏社会の人間から、借金のカタにもらったものだと、後になって知ることになる。健一の隠し事の一つにすぎなかった。\n\n葬儀当日、弔問客がひっきりなしに訪れる中、健一の友人だと名乗る高橋雅彦が、ずいぶんと馴れ馴れしく現れた。彼は健一の死を悲しむふりをしながら、恵子に囁くように言った。「健一さん、借金、結構抱えてたみたいですね。奥さん、大変でしたね」。その軽薄な言葉に、恵子の胸に冷たいものが走った。高橋は、健一が生前、殊の外気に入っていたという高級な石鹸を、弔問の品として恵子に渡した。\n\n葬儀が終わり、静けさを取り戻した家で、恵子は健一の部屋で見つけた日記を読み始めた。そこには、夫の醜い本性が赤裸々に綴られていた。借金、嘘、そして裏社会との繋がり。友人だと思っていた高橋とも、裏で繋がっていたらしい。恵子は、食器棚の食器が、健一が裏社会の人間から脅し取ったものだと確信した。日記には、高橋が健一の元へ頻繁に顔を出し、あの高級な石鹸を gift として持ってきた、という記述もあった。\n\nその夜、恵子は浴室で湯に浸かっていた。湯気で曇った鏡を見つめながら、ふと、浴槽の底に沈む、見慣れた石鹸に目が留まった。健一が愛用していた、あの高級な石鹸。弔問に訪れた高橋が持ってきたものと、全く同じ銘柄だ。恵子の頭の中に、点と点が線で繋がった。健一の死は、事故ではなかったのではないか。高橋が、借金絡みで健一を殺害したのではないか。日記と、あの石鹸。それらが結びついた時、恵子の目に、底冷えするような冷たい光が宿った。\n\nその時、玄関のチャイムが鳴った。高橋だ。恵子は、健一への長年の恨みと、高橋への疑念を胸に、静かに浴室を出た。\n\n玄関で高橋と対峙した恵子は、健一の日記と、あの石鹸を突きつけた。「これは、何ですか?」恵子の声は、氷のように冷たかった。高橋は動揺した。顔色を変え、しどろもどろになりながら、ついに自白した。健一の借金返済のため、事故に見せかけて殺害したのだと。恵子は、冷たく微笑んだ。「あなたも、あの食器棚の食器と同じ運命よ」。恵子は、高橋が持ってきた高級な石鹸を手に取った。そして、彼を浴室へ誘い込んだ。健一のために使っていた、強烈な洗浄力を持つ食器用洗剤。高橋が油断した隙に、恵子はそれを彼の口に大量に流し込んだ。泡が口から溢れ出し、苦悶の表情で呻く高橋。その姿を、恵子は健一が愛用していた石鹸を手に、静かに、そして満足げに見つめていた。浴室のドアがゆっくりと閉まる。それは、健一への最後の晩餐であり、高橋への新たな「晩餐」の始まりだった。\n\n浴室からは、洗剤の泡と、高橋の苦悶の呻き声が響き渡る。恵子は、健一の恨みを晴らしたこと、そして高橋という厄介事を片付けたことに、歪んだ満足感を得ていた。鏡に映る自分の顔には、もはや虚無はない。そこには、健一と同じように、他者を破滅させることに喜びを見出す、新たな狂気が宿っていた。恵子は、健一が愛用していた石鹸を手に、静かに微笑む。次なる「晩餐」は、誰になるのだろうか。

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