放課後の解剖学

放課後の音楽室。窓の外は茜色に染まり、静寂が部屋を包み込んでいた。佐藤健太は、ヘッドホンでベートーヴェンの「月光」を聴いていた。その荘厳な旋律は、彼の心を優しく撫でる。しかし、その日はいつもと違った。第1楽章の静謐な調べの中に、微かな、しかし確かな「軋み」が混じり始めたのだ。まるで、古い木造家屋がきしむような、あるいは、何かが無理やり引き裂かれるような音。健太はヘッドホンを外し、耳を澄ませた。しかし、音はもう聞こえない。気のせいだろうか。あるいは、古い音響機器の不具合かもしれない。彼はそう思い、再び音楽に没頭した。

一曲を聴き終え、健太が片付けを始めようとした時、ふと山田先生の机の上に置かれた、見慣れないものが目に留まった。それは、銀色に鈍く光る、細く尖った刃物。解剖用のメスに酷似していた。好奇心に駆られ、手を伸ばそうとした、その瞬間だった。音楽室のドアが、ゆっくりと、ひとりでに開いた。外から冷たい風が吹き込み、カーテンを揺らす。

昨日の「軋み」の記憶が蘇り、健太は背筋に冷たいものを感じた。これは、単なる偶然だろうか。それとも……。

翌日、学校は騒然としていた。音楽部の部長が、奇妙な形で失踪したというのだ。学校は一時的に閉鎖され、警察の捜査が始まった。健太は、昨日のメスと、音楽中に聞こえた「軋み」が、頭の中で不気味に結びついていくのを感じた。あのメスは、一体何のためにあったのだろうか。そして、あの「軋み」は、部長の失踪と関係があるのだろうか。不安に駆られた健太は、放課後、誰にも気づかれないように理科準備室へと忍び込んだ。

埃っぽい棚の奥に、解剖用の道具が並んでいた。その中に、健太の目を引くものがあった。それは、奇妙な形状の、弦楽器の部品らしきものだった。これまで見たこともないような、複雑な構造をしている。

さらに奥の棚で、健太は一冊の古びたノートを見つけた。開いてみると、そこには山田先生の筆跡で、難解な数式や図がびっしりと書き込まれていた。「音響による人体構造の共鳴と変容」。そのタイトルを見た瞬間、健太の背筋に冷たい汗が流れた。ノートには、特定の周波数が骨格に干渉し、変形させるという、荒唐無稽とも思える理論が綴られていた。そして、ノートの端には、あの奇妙な弦楽器の部品のスケッチと、失踪した部長の顔写真が、まるで何かの証拠のように並んでいた。健太は、息を呑んだ。

意を決した健太は、山田先生の元へ向かった。昨日の出来事、理科準備室で見つけたノートについて、問い詰めた。山田先生は、困惑したような、しかしどこか覚悟を決めたような表情を浮かべ、静かに口を開いた。「佐藤君、君が見つけた部品は、君が探しているものではない。あれは、音楽を『奏でる』ための、特別な道具なんだよ」

その言葉と同時に、どこからともなく、再び「月光」が流れ始めた。しかし、それは健太が昨日聴いたものとは全く異なっていた。歪み、軋み、そして、耳をつんざくような不協和音。音楽が最高潮に達した瞬間、健太の身体に激しい振動が走った。視界が歪み、全身の骨がきしむような、耐え難い感覚。

次に健太が目覚めた時、彼は見慣れない、金属的な響きを持つ部屋にいた。冷たく、無機質な空間。傍らには、田中刑事が立っていた。彼は、健太に静かに告げた。「佐藤さん、お帰りなさい。君は、失踪した部長の『代わり』として、音楽の調律を終えたんだよ」

健太は、自分が音楽を聴いている間に、無意識のうちに「調律」され、新たな「楽器」として作り替えられていたことを知った。音楽は、彼にとって、自分自身が解体され、再構築されるような、悪夢のような体験だった。音楽を聴いていたはずなのに、自分が楽器になっていたなんて……。絶望と恐怖が、健太の全身を支配した。日常に潜む非日常、そして、音楽がもたらす恐るべき変容。それは、健太の「当たり前」の認識を、根底から覆すものだった。

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