消えた信号

夏の終わりの日差しが、アスファルトの熱気を孕んで肌にまとわりつく。佐藤恵美は、ハンドルを握る手に力を込めた。夫、健一の車のテールランプが、緩やかにカーブを曲がって見えなくなった。疑念は、いつしか確信へと変わっていた。日曜日の午後、出張だと偽って家を出た夫。その足取りは、いつもと違う、どこか浮ついたものだった。今、その車は、普段は通らない、人里離れた田舎道へと進んでいる。

恵美は、息を潜めて健一の車を追った。対向車もほとんどなく、蝉の声だけが耳をついて離れない。やがて、健一の車は、雑草が生い茂る空き地に停車した。恵美は、数メートル手前で車を止め、茂みに身を隠した。車のドアが開く音。健一と、助手席から降りてきた女性の声が聞こえてくる。

「恵美さん、早く帰ろうよ。奥さんにバレたら大変よ。」

女性の声は、甘く、しかしどこか焦った響きがあった。恵美は、その声に奇妙な違和感を覚えた。愛人だろうか。健一が、こんなにも人のいない場所で、愛人と会っている。疑念は確信へと変わる。だが、愛人の言葉には、健一を試すような、あるいは何かを強要するような響きがあった。

恵美は、さらに車を近づけ、茂みの隙間から車内を覗き込んだ。健一と愛人は、楽しげに会話をしていた。恵美の疑念は、もはや疑う余地のない事実となった。しかし、二人の様子がおかしい。愛人は頻繁に健一の顔色を伺い、健一も落ち着きがない。愛人は時折、健一の腕を掴み、何かを訴えかけるような仕草を見せた。その時、突然、健一が激しく咳き込み始めた。

「…けほっ、げほっ…」

健一は、苦しそうに胸を押さえ、息を荒くした。愛人は、顔面蒼白になり、パニックに陥った。

「ちょ、あなた!どうしたの!?大丈夫!?」

恵美は、夫が死にかけているという事実に、心臓が凍りつくような恐怖を感じた。愛人は、誰か助けを求めるように叫んだ。

「誰か!誰か助けてください!」

恵美は、夫を助けなければ、という衝動に駆られ、車を発進させようとした。その時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。それは、急速に近づいてくる。まさか、こんなところで。

パトカーは、二人の車にぴったりと寄り添うように停車した。制服を着た警察官が、健一の車に駆け寄る。愛人は、泣き崩れ、健一は、ぐったりとシートに沈んでいた。恵美は、夫が事故か、急病で倒れたのだと思い、安堵と、そして激しい後悔の念に襲われた。浮気相手に、夫を危険な目に遭わせたのではないか、と。

しかし、警察官が愛人に事情を聞き始めると、愛人はすすり泣きながら証言した。

「私、何も知りません。この人、急に具合が悪くなったんです。奥さんは、その、ずっと後を…」

愛人の言葉に、恵美はぞくりとした。彼女は、自分を陥れようとしている。夫の不倫相手だと思っていた女が、自分を犯人に仕立て上げようとしているのだ。冷たい恐怖が、恵美の全身を駆け巡った。その時、愛人がさらに衝撃的な言葉を口にした。

「…だって、この後、奥さんが車で追ってきて…」

警察官が、健一の車内から、小さな空き瓶を手に取った。それは、薬品の瓶だった。愛人は、健一を殺そうとしていたのだ。恵美は、その事実に突き落とされた。夫の浮気、愛人の殺意、そして、自分への濡れ衣。混乱と怒り。その狭間で、恵美は無意識のうちにアクセルを踏み込んでいた。後続から追走してきた恵美の車が、健一の車に、鈍い音を立てて追突した。

サイレンの音だけが、夏の終わりの田舎道に虚しく響き渡る。不気味な静寂が、全てを包み込んだ。誰が誰を憎み、誰が誰を陥れようとしていたのか。もはや、誰にも分からない。ただ、悲劇だけが、そこにあった。

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