サラダに映るニュース

定年退職して早三年。佐藤健一の日常は、代わり映えのないものだった。朝、新聞を広げ、昼は近所のスーパーで買った総菜を食卓に並べる。特に、手軽なサラダは毎日のように彼の食卓に上った。テレビからは、政府発表の「明るい未来」「経済再生」といった言葉が、けたたましく、しかしどこか虚しく響いていた。健一は、その言葉をただ流し聞きながら、フォークでサラダのレタスを掬い上げる。しかし、ここ最近、どうにもサラダの味が気に入らない。

水っぽく、後味に妙な苦みが残る。気のせいかとも思ったが、毎日食べれば、その違和感は無視できないものになっていった。野菜本来の甘みやみずみずしさが失われ、まるで何か別のものが混ざっているかのようだ。健一の鋭い観察眼は、こうした日常の些細な変化を見逃さなかった。味覚がおかしいのか、それとも、このサラダに何か別の要因が働いているのか。

その違和感は、ある日の午後、一層強くなった。いつものようにスーパーへ向かう途中、駐車場で一台の黒いセダンが停まっているのが目に入った。車から降りてきたのは、一人の男。身なりは整っているが、その雰囲気はどこか場違いで、冷たい空気を纏っていた。男は、健一の視線に気づくと、ゆっくりとこちらを振り返った。その視線は、氷のように冷たく、健一の背筋を凍らせた。男の顔は、なぜか、テレビのニュースで見た顔に酷似していた。確か、地域活性化の旗振り役として紹介されていた、著名な実業家だったはずだ。

男がスーパーの裏口へと向かっていくのを見送った後、健一の疑念は確信に変わっていった。サラダの異変と、あの男の行動。その二つには、何か繋がりがあるのではないか。その夜、健一はいてもたってもいられず、再びスーパーの裏口へと向かった。月明かりの下、男が再び姿を現した。手には、小さな、黒い光を放つ装置のようなものを持っている。男は、その装置を、スーパーの荷捌き場に置かれていた、サラダに使われるであろう特定の野菜――トマトやキュウリなど――に、無遠慮に照射していた。レーザーのような、細く鋭い光。それは、まるで生命を奪うかのようだった。無機質で、冷徹な光景に、健一は息を呑んだ。

翌日、テレビでは、その地域で採れた野菜が「最新技術により、栄養価が飛躍的に向上した」と、満面の笑みのキャスターが報じていた。しかし、健一の食卓に並んだサラダは、昨日と変わらず、不味かった。

健一は、男がレーザーを照射していたのが、サラダに使われる特定の野菜だけであることに気づいた。そして、その野菜こそが、ニュースで「栄養価向上」と喧伝されているものだった。まさか。健一の頭の中に、一つの仮説が浮かんだ。あの男は、レーザーのようなもので、野菜の味覚を麻痺させ、あるいは鈍らせ、その代わりに「栄養価が向上した」という情報を、人々の意識に刷り込んでいるのではないか。しかし、なぜそこまでして。単なる宣伝にしては、あまりに陰湿すぎる。地域経済を潤すため、という名目だろうか。それにしては、あまりにも巧妙で、そして悪質な「味覚操作」ではないのか。健一の胸に、冷たい疑念がよぎった。

数日後、健一は、スーパーの裏口付近の茂みの中に、あの男が使っていたらしき装置の残骸を発見した。それは、プラスチック製の安価なもので、野菜の味覚を一時的に鈍らせるための、粗末な装置だった。「最新技術」などでは決してない。ただの、原始的な、そして姑息な味覚操作だったのだ。ニュースで流れる「飛躍的な栄養価向上」という情報は、この味覚操作と連動した、巧妙な情報操作に過ぎなかった。健一は、静かにサラダを口に運んだ。やはり、不味い。その舌を刺すような不味さこそが、唯一の「真実」だった。世間は、あたかも魔法のように語られる「向上した栄養」という情報に踊らされ、本来、最も原始的で信頼できるはずの味覚という感覚さえも、疑わなくなりつつあった。健一は、不味いサラダを咀嚼しながら、静かに怒りを覚えた。この、どうしようもない「真実」を、一体誰に伝えれば良いのだろうか。テレビからは、今日も変わらず、明るい未来を約束する声が聞こえていた。しかし、健一の耳には、それはもう、ただの騒音にしか聞こえなかった。

この記事をシェアする
このサイトについて