春休みの残響

春休み最終日。窓の外は、もうすぐ新学期を迎える空の色をしていた。高校二年生の五十嵐健太は、数年ぶりに父の住む実家へと向かう電車の中で、固く拳を握りしめていた。幼い頃、母が亡くなってから、父との決定的なすれ違いがあった。それ以来、二人の間には深い溝ができてしまった。駅に着き、見慣れたはずの町並みを歩く。古びた一軒家は、健太が最後に訪れてから、さらに静寂を深めているように見えた。

玄関のドアを開けると、父、浩二が立っていた。五十代後半の、頑固で不器用な男。健太の姿を認めると、その表情に戸惑いが浮かんだ。「…来たのか」ぶっきらぼうな声だった。「…うん」健太は、それだけを返した。

健太の部屋は、そのままになっていた。壁には、かつて夢中になったアニメのポスターが色褪せて貼り付けられたまま。埃をかぶったおもちゃ、読みかけの本。それら一つ一つが、健太の胸に鈍い痛みを呼び起こした。父は、健太の突然の訪問に戸惑いながらも、ぎこちなく応対してくれた。夕食は、沈黙が支配する時間が長かった。ぎこちない会話が、時折、空気を震わせるだけだ。

食卓を囲みながら、健太は子供部屋の隅に置かれた箱に目を留めた。そこには、健太が幼い頃に好きだったアニメのフィギュアの箱が、丁寧に仕舞われていた。それは、健太が「もういらない」と捨てたはずのものだった。父が、それを、まだ大切にしていたのだ。健太は、父の真意が掴めず、苛立ちと悲しみが募っていくのを感じた。子供の頃、父はいつも忙しそうで、健太のことなど見ていないように思えた。でも、このフィギュアは…?

食後、健太は子供部屋で昔のアルバムを見つけた。そこには、幼い頃の健太と、不器用ながらも愛情を注いでいた父の姿があった。満面の笑みの健太を、少し緊張した面持ちで抱きかかえる父。しかし、あるページをめくると、健太が思春期特有の反抗をしていた頃の写真があった。父は無理に健太の肩に手を置こうとしているように見えたが、健太はそれを振り払っているかのような、険しい表情で写っていた。この頃から、二人の決定的な亀裂が始まったのだと、健太は改めて思い知らされた。父が部屋を出て行った後、健太はさらに古い日記を見つけた。そこには、父への感謝と、父に認めてほしいという、切実な願いが綴られていた。健太は、自分が父の愛情を理解していなかったこと、そして父をどれだけ傷つけてきたかを、痛感させられた。

子供部屋の隅に、さらに埃をかぶった大きな絵があった。中学時代、健太が「宇宙飛行士になる」と夢を描いて描いた絵だ。父が「いつか飾ろう」と言っていたものだった。父の部屋に飾るにはあまりにも子供っぽく、しかし父にとっては、健太の輝かしい未来を象徴する宝物のように、大切にされていたのだ。健太は、父がずっと自分を待ち続けていた、ということを悟った。感情が、堰を切ったように溢れ出した。

健太は、子供部屋のドアを乱暴に開け放ち、リビングで一人酒を飲んでいた父に詰め寄った。「なんで、なんで俺がもういない子供部屋に、俺のものを置いてるんだよ!」声が震える。「俺のこと、まだ諦めきれてないのか!」

父は、健太の激しい言葉に動揺し、グラスを置いた。長年、喉に詰まっていた言葉が、ようやく吐き出される。「お前が、お前が俺から離れていくからだよ!」浩二の声が、かすかに震えていた。「俺だって、お前との接し方が分からなかったんだ!」「でも、お前が俺の知らない間に、俺のことなんか忘れて、俺だけが、俺だけがお前のことを…!」

子供部屋で、父と健太は、互いにぶつけ合うように、長年のわだかまり、後悔、そして秘めていた愛情を叫び合った。父は健太の描いた絵を手に持ち、「お前が描いた、この夢、俺は忘れてないぞ!」と叫んだ。健太は、父の言葉に、長年の呪縛が解けるような感覚を覚えた。子供部屋の窓から差し込む朝焼けが、二人の姿を赤く照らし始めた。

父と健太は、子供部屋の片隅に置かれたままの、健太の昔の荷物と、父が飾ろうとしていた絵を前に、静かに向き合った。激しい感情のぶつかり合いの後、そこには、言葉にならない、しかし確かな絆の再確認があった。春休みの終わり。父と息子は、新たな関係を歩み始める、かすかな希望を胸に、静かに頷き合った。朝焼けの光が、まだ消えきらない二人の熱を静かに包み込んでいた。

この記事をシェアする
このサイトについて