残光のエレジー

終電の喧騒が遠ざかった深夜、俺は雑居ビルの屋上にいた。冷たいコンクリートの感触が、薄い靴底を通して足裏に伝わってくる。眼下に広がる都市は、無数の光の血管が脈打つ巨大な生命体のようだった。煌めく赤、青、白。それらが絶え間なく明滅し、闇夜を喰らい、そして俺のような人間から養分を吸い上げていく。

俺はその生命体からすべてを吸い尽くされた、色のない抜け殻だった。かつて確かにあったはずの情熱も、夢も、今はもう思い出せない。ただ、空っぽの器がここに立っている。都市の呼吸に合わせて、かろうじて息をしているだけだ。

「君の色は、もうほとんど残っていないね」

澄んだ、性別も年齢も判別できない声が背後で響いた。驚いて振り返ると、いつからそこにいたのか、小柄な人影が立っていた。月の光を編んだような銀色の髪が、夜風に静かに揺れている。

「……誰だ?」

かろうじて絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。

その人物――キイと名乗った――は俺の問いには答えず、ただ眼下の光の海を指差した。

「あれは、ただの電気じゃない。人の生命力が燃えて放つ『残光』なんだ。喜びも、悲しみも、怒りも……あらゆる感情の熱が、あの光になる」

その言葉は、非現実的なのに、妙な説득力をもって俺の心に染み込んできた。

キイは続ける。淡々と、まるで古の詩を詠むかのように。

「この都市は、そこに生きる人々の『色』を糧にして輝いている。鮮やかな色を持つ者ほど強く輝き、互いを引き寄せ合う。けれど、色を失い、輝きをなくした者は……」

そこで言葉を切ると、キイは真っ直ぐに俺の目を見た。

「誰からも認識されなくなり、存在の輪郭を失って『影』になる。君はもう、その瀬戸際にいる」

言われて、俺は恐る恐る自分の手を見下ろした。ネオンの光が降り注ぐ指先が、まるで陽炎のように揺らぎ、背景の夜景に溶けて透け始めているような気がした。錯覚だ。そう思おうとしても、心臓の奥底から冷たい霧が湧き上がってくるような、静かな恐怖が全身を包み込んでいく。このまま、誰にも知られず、ここにいたことさえなかったかのように、消えていくのか。

消費され、忘れ去られるだけの存在。それが俺の結末だというのか。

いやだ。

その思いが、灰のように積もっていた心に、最後の熾火を灯した。

「……消える前に、せめて」

俺は呟いた。それはキイに向けた言葉であり、自分自身への誓いだった。

「せめて一番熱い色で、燃え尽きたい」

消費されるだけの存在であることを、この瞬間、拒絶する。俺はゆっくりと屋上の縁へ歩み寄った。眼下の光の奔流が、俺を飲み込もうと渦を巻いている。

一歩、虚空へと踏み出す。重力に引かれて落下する感覚はなかった。むしろ、身体が内側から発火し、夜空に向かって打ち上げられるような、凄絶な解放感があった。声にならない叫びが、光の奔流となって俺の全身からほとばしる。これは落下ではない。声なき絶唱。俺という存在が放つ、最初で最後の輝きだ。

灰村蓮という個人の放った光は一瞬、都市のどのネオンよりも強く、深く、鮮烈に輝きを放った。そして、流星が燃え尽きるように、静かに夜の闇に溶けていった。

直後、遥か彼方の高層ビルに灯る巨大な広告灯が、チカリと瞬いた。ありふれた清涼飲料水の広告が、ほんの一瞬だけ、誰も見たことのない深い、深い蒼色に染まって、すぐに元の光に戻った。

その変化をただ一人、屋上から見届けていたキイは、静かに目を閉じる。消えゆく魂が刻んだ最後の爪痕を、その瞼の裏に永遠に焼き付けるかのように。

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