墓場の掃除人

仮想空間「墓場」は、無数の光の粒子が漂う、虚無的な広がりだった。ここには、個人の記憶がデータ化され、保存されている。しかし、そのデータは永続しない。定期的な「掃除」、すなわち削除が義務付けられていた。俺、シキは、その掃除人だ。感情というものを、いつからか失くしてしまった。ひたすらに、業務をこなすだけの存在。

今日の対象は、アカリ。文楽の人形遣いに憧れた少女。その記憶データは、ある日突然、その夢を諦めた理由へと向かっていた。俺は、無機質なツールを手に、アカリの記憶の奔流に分け入っていく。他のデータと同様、ただ淡々と、その存在を消去していく。それは、俺の仕事だ。

だが、アカリの記憶データは、異常なほど劣化が早かった。まるで、何かに侵食されているかのようだ。俺がツールを向けた瞬間、データの一部が微かなノイズを発し、抵抗を示した。それは、アカリが文楽の舞台を初めて見たときの、鮮烈な記憶だった。データは、まるで意思を持つかのように、その場面だけを繰り返し描く。他とは明らかに違う、執拗なまでの再現。

消去できない記憶の断片。アカリは、師匠から「才能がない」と告げられ、夢を諦めた。その記憶が、俺のツールを拒絶している。だが、その記憶の奥底には、師匠がアカリに贈った、小さな文楽の人形が映っていた。俺は、その人形が、現実のアカリの墓に置かれたものと酷似していることに気づいた。それは、単なる偶然ではない。アカリの、強い意志の表れだった。

なぜ、この記憶だけが、これほどまでに鮮明なのか。なぜ、俺のツールは、この断片を消去できないのか。俺は、アカリの記憶データが「残したい」という意志によって、意図的に一部が保護されていることに気づいた。夢を諦めた悲しみではなく、その夢に触れたときの純粋な感動と、師匠の温情を忘れたくないという、アカリ自身の想い。それは、消去されるべき「過去」ではなく、彼女自身が「守りたい」と願う「現在」だった。

俺は、ツールの起動を止めた。指先が、ほんの一瞬、止まった。その記憶に、静かに寄り添う。静寂の中で、アカリの感動が、俺の無機質な意識に、微かに響くようだった。

俺は、アカリの記憶データの一部を「保存」としてマークした。業務規定外の行為だ。仮想空間「墓場」には、消えゆく記憶の海の中に、アカリの「残したい」記憶が、静かに輝き続けていた。それは、虚無の中に灯された、小さな、しかし確かな光だった。

現実世界では、アカリの墓石には、小さな文楽の人形が、風に揺れていた。その姿は、かつてアカリが憧れた舞台の、幕開けを告げるかのようだった。俺の無感情な内面に、微かな変化が生まれたかのようだった。それは、俺自身が、いつか失くしてしまったものへの、微かな追憶だったのかもしれない。

記憶は、いずれ消える。それがこの世界の摂理だ。だが、それでも残したいと願う想いが、虚無の中に確かな光を灯す。俺が、この「墓場」で、初めて垣間見た、人間の温かさ。それは、俺という存在に、静かな問いかけを残した。

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