デパートの地下、消えない喜び

埃っぽい日差しが、窓ガラスに鈍く反射していた。佐々木恵子の日常は、そんな埃の粒のように、静かで、しかし退屈なものだった。夫の帰りは遅く、子供たちは独立し、家の中はいつもがらんどう。テレビをつければ、聞こえてくるのは決まりきったニュースと、いつもの味気ないドラマの音声ばかり。このまま、色褪せた壁紙のように、私も静かに朽ちていくのだろうか。そんな漠然とした不安が、彼女の胸を締めつける。

週末。少しでもこの重苦しい空気を振り払いたくて、恵子は近所の老舗デパートへと足を向けた。特に欲しいものがあるわけでもない。ただ、人々の賑わい、色とりどりの商品、そして活気のある空気に触れたかった。彼女の向かう先は、いつも決まって地下の食料品売り場だ。そこは、地上とはまるで違う、別世界のような場所だった。

その日、地下の売り場は、いつにも増して異様なほどの活気に満ちていた。客の声、店員の呼び込みの声、BGM、それら全てが混ざり合い、一種の喧騒を生み出している。しかし、その賑わいの中に、恵子は以前から感じていた違和感を、より強く覚えた。店員たちの笑顔だ。それは、あまりにも眩しく、あまりにも完璧で、まるで張り付けたような、空虚な笑顔だった。目は笑っていない。なのに、口元だけは、弧を描き続けている。

そんな中、ある惣菜店の前で、恵子の足が止まった。見慣れない商品が、ショーケースの中に整然と並べられている。色鮮やかな野菜、艶やかな肉料理。そして、その中心に置かれたポップが、彼女の目を引いた。「新商品、一口食べれば、あなたもきっと幸せに!」

幸せ、か。恵子は、その言葉に、微かな、しかし抗いがたい好奇心を抱いた。日々の倦怠感に苛まれ、本当の幸福から遠く離れてしまったような感覚。この惣菜が、ほんの少しでも、その渇きを癒してくれるのではないか。そんな期待が、胸の奥で小さく灯った。彼女は、その惣菜を一つ、購入した。

家に帰り、夕食の準備を終えた恵子は、その惣菜を口にした。瞬間、彼女の全身を、形容しがたい幸福感が駆け巡った。それは、単に美味しいという感覚ではない。舌の上で溶けるような甘み、鼻腔をくすぐる芳醇な香り。それら全てが、心の奥底から湧き上がるような、満ち足りた感覚へと昇華していく。まるで、長年探し求めていたものが、ようやく見つかったかのような、そんな感覚だった。

この「喜び」。恵子は、その味を、その感覚を、忘れられなくなった。週に何度も、デパートの地下へと足を運ぶようになった。あの惣菜を買い、食べるためだけに。食べるたびに、日常の退屈さは遠のき、心の靄は晴れていく。世界は色を取り戻し、自分自身も輝きを取り戻したかのような錯覚に陥った。惣菜は、恵子にとって、もはや単なる食べ物ではなかった。それは、生きていくための、唯一の「希望」だった。

ある日、いつものように惣菜を口にした後、恵子は店員に尋ねてみた。長年、あの虚ろな笑顔の裏に隠された何かを知りたいと思っていたのだ。「あの、すみません」と、控えめに声をかける。「この惣菜、どうしてこんなに美味しいんですか?食べるたびに、とても幸せな気持ちになるんです」

店員は、いつもの、あの満面の笑みを浮かべた。「お客様が『喜び』を感じてくださることが、私たちの一番の喜びですから」その声は、明るく、しかしどこか抑揚のない、不気味な響きを帯びていた。

恵子が、その言葉に微かな違和感を覚えたその時、店員の笑顔が、ふと、歪んだ。そして、その目は、冷たく、鋭く恵子を見据えた。「このデパートでは、お客様に『喜び』をお届けするのが使命なんです。そのためなら、どんなことでも…」

店員の囁きは、恵子の背筋を凍らせた。どんなことでも?その言葉の裏に、何が隠されているのだろうか。そして、ふと、恵子は気づいた。この惣菜を食べるたびに、自分の感情が、少しずつ、鈍くなっていくことに。喜びは感じる。しかし、悲しみや怒り、不安といった、ネガティブな感情が、遠のいていく。まるで、脳が麻痺していくかのように。

この「喜び」には、代償があるのだ。恵子は、その秘密に、薄々気づき始めていた。しかし、それでも、あの抗いがたい、脳を痺れさせるような「喜び」を求めて、彼女の足は、再びデパートへと向かう。地下の入り口に立つと、あの店員たちの、無数の、虚ろな笑顔が、彼女を迎え入れた。その笑顔の海に、吸い込まれるように売り場へと足を踏み入れた時、恵子の顔にも、いつしか、あの店員たちと同じ、虚ろな喜びの笑みが浮かんでいた。彼女の感情は、もう、ほとんど失われていた。ただ、あの惣菜を求める渇望だけが、彼女の中に残っていた。

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