勤労感謝の日のプリン

澄み切った空気が肺を満たす。勤労感謝の日、早朝の町はいつものように静まり返っていた。人の営みが希薄になった近郊の郊外。アキラは、冷たいアスファルトを踏みしめながら、いつものランニングコースを走り出した。空は薄曇りだが、どこか透明感を帯び、非現実的な静けさが町全体を包んでいる。

今日、彼は祖母が作ってくれたプリンを買いに行くつもりだった。失われた日常への、ささやかな、しかし彼にとっては大切な儀式。祖母はもういない。プリンも、もうあのお袋の味ではないだろう。それでも、この日にプリンを口にすることで、彼は過去と繋がろうとしていた。

走り始めてしばらくすると、アキラは微かな違和感に気づいた。風の匂いが、いつもと違う。どこか甘く、懐かしいような、それでいて現実離れした香り。街灯の光が、まるで水面に映るように、ゆらゆらと揺らめいている。遠くから、子供たちの遊ぶ声のようなものが微かに聞こえた気がしたが、すぐに掻き消された。まるで、風景そのものが、静かに呼吸をしているかのようだ。

馴染みの商店街へ向かう。プリンを売っているはずの店は、しかし、扉が閉まっていた。シャッターの前に、一枚のスケッチブックがぽつんと置かれている。アキラは訝しみながら、それを手に取った。表紙には、幼い頃のハルが描いた、歪な星の絵。ハル。彼の幼馴染であり、もうこの世にはいない少女だ。

ページをめくる。そこには、未来の町並みと、彼らが一緒にプリンを食べている、子供らしい絵が描かれていた。描かれた空は、今日の空と同じ、淡い、しかし確かな色をしていた。ハルが、この町に何かを残したのだ。そう思った瞬間、アキラの脳裏に、この現象の核心が閃いた。

この町は、「記憶」の断片で織り上げられている。勤労感謝の日。感謝や追憶といった、人々の感情が強まる日に、無意識の記憶が具現化し、現実世界に干渉するのだ。ハルのスケッチブックは、彼女の強い「生きたい」という記憶と、アキラへの想いが、この町に刻んだ、唯一無二の痕跡だった。それは、彼女がアキラに遺した、メッセージ。

アキラは、この現象を「元に戻す」ことを考えなかった。むしろ、この記憶の海を漂い、ハルの残した「想い」に触れたいと思った。彼は、再び走り出した。町を一周する。ハルが描いた未来の町並みを、その目で確かめるために。

町を一周し終えたアキラが、ふと空を見上げた。雲間から、柔らかな陽の光が差し込んでいる。町は、いつもの、希薄な日常を取り戻したように見えた。プリンは買えなかった。しかし、それはもはや「買えなかった」という喪失ではなかった。ハルとの記憶、そしてこの町が持つ「記憶の力」を知った彼にとって、それは過去との繋がりを再確認する、静かな儀式となったのだ。

広大な空の下、彼の孤独は、記憶の温かさに包まれ、静かに溶けていく。彼は、この記憶の海を泳ぎながら、これからも走り続けるだろう。過ぎ去った時間の切なさ、そして記憶の温かさが、彼の胸に静かに、しかし確かに残っていた。

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