総務課の怪物は、津波の夢を見る
古びた町役場の総務課。埃っぽい書類の山に埋もれながら、雨宮栞はペンのインクが乾くのを待っていた。新人で、真面目で、几帳面。それが栞の評価だった。しかし、彼女の胸の内には、常に冷たい波が押し寄せていた。それは、海からの、奇妙な胸騒ぎだった。
「またか……」
窓の外、穏やかなはずの海面が、栞には不穏な色を湛えているように見えた。まるで、深海で巨大な何かが蠢いているかのような、不気味な予感。書類の束から顔を上げた栞の視線は、自然と窓の外へと吸い寄せられる。空はどこか重く、雲は奇妙な形をしていた。
「栞さん、どうした?顔色が悪いぞ」
隣のデスクから、先輩の佐伯啓介が声をかけてきた。飄々とした態度の佐伯だが、仕事はきっちりこなすベテランだ。栞は慌てて顔を上げ、努めて平静を装った。
「いえ、なんでもありません。少し、海の様子が気になっただけです」
「海?別にいつもと変わらねぇと思うがな」
佐伯は肩をすくめたが、その目は栞の言葉に何かを感じ取ったかのようだった。栞の不思議な予感に、彼は薄々気づいていたのかもしれない。
その予感は、次第に具体的なイメージを伴うようになっていた。それは、町を飲み込む巨大な津波。そして、その津波の源となる、海に潜む「怪物」の姿。それは、栞の心の奥底にある不安が、そのまま具現化したかのような、恐ろしい存在だった。
「佐伯さん、今日、海が……」
栞は言葉を切り、言葉を探した。どう説明すれば、この得体の知れない感覚を伝えられるだろうか。佐伯は、栞の戸惑いを静かに見守っていた。
「……なんか、嫌な感じがするんです。すごく、大きな何かが、こっちに向かってきているような」
「大きな何か、か」
佐伯は眉をひそめた。彼の日常は、栞の言葉によって、少しだけ色づき始めていた。それは、歓迎すべき変化ではなかったかもしれない。
数日後、栞の予感は確信へと変わった。朝から空は鉛色に染まり、海は荒れ狂うような唸り声を上げていた。役場にいる誰もが、その異様な空気に気付き始めていた。栞は、いてもたってもいられず、佐伯の元へ駆け寄った。
「佐伯さん!もう、静かに見ているだけじゃダメなんだ!」
栞の声は震えていた。その瞳には、必死の訴えが宿っている。
「町に、危険が迫っています。津波が……!」
佐伯は、栞の顔色を窺った。彼女の言葉は、いつもの掴みどころのない予感とは、明らかに違っていた。そこには、抗いがたい切迫感があった。
町長室で、避難勧告を出すべきか、激しい議論が交わされていた。しかし、確たる証拠がない。そんな中、栞は必死に訴え続けた。
「もう、時間がないんです!」
その時、役場の放送設備が突然、不調をきたした。バリバリというノイズが混じり、音声が途切れる。
「くそっ!」
佐伯は、栞と共に放送室へ駆け込んだ。故障しかけたマイクに向かい、栞は必死に声を張り上げる。
「こちら、町役場総務課です!緊急速報です!海面が不自然に盛り上がっています!津波の恐れがあります!今すぐ、高台へ避難してください!」
佐伯も、隣で必死にマイクの調子を整え、避難を促す放送を続けた。「おい、聞こえてるか!今すぐ高台へ避難しろ!」
その直後、役場全体が激しく揺れた。窓の外、轟音と共に、想像を絶する巨大な壁が町を襲いかかってきた。それは、栞が予感していた通りの、恐ろしい「怪物」の顕現だった。津波だ。
役場の中で、二人は窓の外の光景を静かに見つめていた。荒れ狂う水が、町を飲み込んでいく。しかし、栞と佐伯の必死の呼びかけのおかげで、多くの住民はすでに避難を開始していた。津波が去った後、町は甚大な被害を受けていた。しかし、多くの命が失われることはなかった。
瓦礫の中から、流された古い写真立てが顔を出した。子供が描いた、奇跡的に無事だった絵。栞は、自分の予感が、この町を救ったのだと実感した。
佐伯は、栞の不思議な力と、彼女の静かな覚悟に、改めて敬意を表した。二人の視線が交錯する。言葉にならない、切なくも力強い絆が、静かに生まれていた。日常の裏に潜む「怪物」の存在。それを予感し、静かに立ち向かう人々の姿。津波が去った後の静寂の中に、失われたものへの悲しみと、それでも生き抜いた者たちの静かな希望が、劇的な余韻となって残っていた。