勤労感謝の日のラーメン
勤労感謝の日。年度末の激務に心身ともに疲弊しきった健一は、珍しく訪れた休日を、いつもなら素通りしてしまう古びたラーメン店で過ごすことにした。年の瀬も迫り、街は慌ただしいが、この店だけは、まるで時が止まったかのように静寂に包まれていた。カウンター席に腰を下ろすと、寡黙な店主の表情に、普段以上の疲労と、何かを諦めたような色が見て取れた。その目は、計り知れないほどの虚無感を宿しているかのようだ。
「いつもの、特製醤油ラーメン、お願いします」
健一の声は、どこか頼りなく響いた。店主は無言で頷くと、中華鍋に湯を沸かし始める。その手つきは、異常なほどに速い。麺を湯切りする一瞬、それはまるで銀色の閃光を放ったかのように見えた。健一は、疲労のせいだろうか、それとも気のせいだろうか、と首を傾げた。
やがて、湯気の立ち込める丼が目の前に置かれた。一口スープをすすると、脳髄を痺れさせるほどの、強烈な美味が駆け巡った。しかし、麺をすするたびに、健一の意識は激しく揺さぶられる。昨日、満員電車で押し潰されていた感覚。来週のプレゼンを前にした、冷や汗。数年前、仕事で大きな失敗を犯し、肩を落としていた自分。
過去と未来の断片が、一瞬にして五感を貫き、現実と混濁していく。まるで、激しい奔流に呑み込まれるような感覚。息苦しさを覚え、健一は箸を止めた。
「…まさか」
このラーメンは、ただのラーメンではない。店主が、疲弊した労働者たちに、一瞬の幸福と引き換えに、彼らの「休息」――つまり、未来の時間を奪っているのだ。この麺は、「時間の奔流」を一時的に固定し、食べる者に「休息」という名の、刹那的な安息を与える、特殊な麺なのだと、健一は悟った。
勤労感謝の日。本来、人々が休むべき日。しかし、この店では、その「休む権利」すらも、このラーメンに捧げられている。店主自身も、過去に何か大きな時間を失い、この「時間調整」という名の、終わりのない作業に囚われているかのようだった。その計り知れない疲労と、虚無感は、彼が日々、無数の労働者の時間を奪い続けていることの、何よりの証拠だった。
健一は、自分がこの勤労感謝の日に、「休む権利」という、最も大切な時間を、このラーメンに捧げたのだと悟った。そして、店主が相変わらず虚無的な表情で麺を茹で続ける姿に、彼もまた、無数の労働者の時間を奪い続けることで、自らの時間を失い続けているのだと確信した。この「時間の呪縛」から逃れることは、もはや不可能だ。来年の年度末も、またここで、失われた時間を求めて、このラーメンを食べてしまうのだろう。健一は、諦めとも皮肉ともつかない、苦い笑みを浮かべた。カウンターに置かれた丼の中の麺は、もう、ただの麺には見えなかった。