紅葉のランドセル

秋風が頬を撫で、燃えるような紅葉が視界を鮮やかに染め上げていた。佐伯陽子は、亡き夫・健一がかつて「二人だけの秘密の場所だ」と教えてくれた、山間の小さな公園にいた。隣では、娘のmiRaiが、新品の赤いランドセルを背負って、はしゃいでいる。 「ママ、見て!この木、一番赤くて綺麗!」 miRaiは、背丈ほどもあるカエデの木を指さし、満面の笑みを浮かべた。その姿は、夫の面影を色濃く宿しており、陽子の胸は熱くなった。健一が逝ってから、この場所に来るのは初めてだ。miRaiがランドセルを背負えるようになったら、必ず連れてこようと誓っていた。ピカピカのランドセルに、亡き父の面影を重ね、陽子はそっと涙を拭った。

帰り道、車窓から流れる紅葉を眺めながら、陽子はふと、miRaiのランドセルに目を留めた。鮮やかな赤に、小さな、手作りのようなウサギのキーホルダーがぶら下がっている。それは、陽子の記憶にはないものだった。 「miRai、そのウサギさん、いつから付いてたの?」 「あ、これ?お友達がくれたの」 「お友達?どのお友達?」 陽子の問いに、miRaiは少し目を泳がせた。「えっとね…」言葉を濁す娘の様子に、陽子の心に微かな違和感が生まれた。ふと、夫の元同僚だった佐藤健一の顔が脳裏をよぎった。夫の死後、彼は妻を亡くし、独り身になっていた。陽子とmiRaiを気遣い、時折、果物やお菓子を届けてくれていた。その際、miRaiに優しく話しかける健一の姿を何度か見かけた。まさか、あの健一さんが…?陽子は、miRaiに何かを植え付けようとしているのではないか、という疑念を抱き始めた。

それからというもの、陽子はmiRaiの些細な言動に神経を尖らせるようになった。miRaiは、以前にも増して「パパがいないと寂しい」「ママだけが頼りだよ」と、陽子への愛情を強く求めるようになった。その言葉は、陽子を安心させるはずだったが、なぜか胸の奥がざわつく。ある日の午後、 miRaiが自室で一人、人形に話しかけているのを陽子は物陰から目撃してしまった。人形は、ランドセルに付いていたものと同じウサギだった。 「ママには言えないけど…健一おじちゃん、パパみたいだから、秘密だよ。うん、秘密」 miRaiの囁きは、陽子の耳に氷のように冷たく響いた。健一さんの影響?陽子はいてもたってもいられず、健一に連絡を取った。会って、 miRaiへの接し方について、それとなく尋ねようとしたのだ。しかし、健一は「miRaiちゃんは本当に良い子だ。亡くなったお父さんのことを、僕が代わりに話して聞かせているだけだよ。君たちを心配しているだけなんだ」と、あくまで「愛情」だと主張し、陽子の心配を「考えすぎだ」と笑って退けた。陽子は、彼の言葉の裏に隠された何かを、やはり見抜くことができなかった。

紅葉が終わりを告げ、枯葉が風に舞う季節になった。冬の気配が色濃くなってきたある日、陽子は miRaiの部屋のクローゼットの奥で、夫の古い写真アルバムを見つけた。めくるたびに、在りし日の夫の笑顔が蘇る。その中に、一枚の写真があった。夫と、若い頃の健一が並んで写っている。そして、衝撃的な一枚。健一が、 miRaiのランドセルと同じデザインの、古い赤いランドセルを背負っているのだ。それは、まるで夫の少年時代を模したかのようだった。 「miRai、この写真、どういうこと?」 陽子は、震える声で娘に問いかけた。しかし、miRaiは視線を逸らし、「うーん、覚えてない」と曖昧に答えるだけだった。陽子の脳裏に、健一の言葉が蘇る。「僕が代わりに話して聞かせているだけだよ」。いや、違う。健一は、単に夫の「代わり」になろうとしているのではない。夫の「一部」を、 miRaiに与えようとしているのだ。あの人形は、 miRaiが陽子ではなく、健一に「父」としての愛情を捧げるように仕向けるための、巧妙な「愛情」の呪縛なのではないか。陽子の心に、恐ろしい確信が芽生えた。

翌朝、陽子は miRaiのランドセルから、あのウサギの人形をそっと取り外した。そして、迷いなくゴミ箱に捨てた。 「どうして!私のウサギちゃん!」 miRaiは、声を上げて泣き出した。陽子は、娘を強く抱きしめる。 「もう大丈夫だからね。ママがいるから」 しかし、陽子の瞳には、 miRaiへの激しい愛情と、健一への底知れない憎悪が渦巻いていた。 miRaiは、母親の腕の中で、人形を失った悲しみと、母親に抱きしめられた安堵がない交ぜになった、複雑な表情で陽子を見上げた。 陽子は悟った。miRaiが健一に「愛情」を注ぎ続ける限り、 miRaiは陽子から離れることはできない。そして、 miRaiを「守る」ためならば、自分はどんなことでもする。陽子は、そう決意を固めた。

紅葉が散り果て、枯葉となった地面に、赤いランドセルがぽつんと置かれている。それは、亡き夫への愛情、そして今ここにいる娘への、歪んでしまった愛情の象徴だった。陽子の愛は、いつしか miRaiを外界から孤立させ、自分だけのものにしようとする執着へと変わっていた。健一の「愛情」は、その歪みをさらに加速させるための、皮肉な触媒に過ぎなかった。 miRaiの心は、母親の愛情と、健一から注がれる「父」のような愛情の間で静かに蝕まれていく。陽子の行動には共感できない。むしろ、不快感と嫌悪感を覚える。しかし、その根底にある「愛情」という名の狂気は、人間の心の奥底に潜む闇を、静かに、しかし確かに覗かせているのだった。

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