最後の投票券
海外赴任まであと数週間。佐伯浩一は、スーツケースのパッキングと、慣れない国際機関での業務の準備に追われていた。リビングでは、妻の由美が片付けをしながら、溜まった郵便物を無造作に仕分けている。国内では、投票率の低下が深刻な問題となっている選挙が目前に迫っていたが、二人の間でその話題が出ることはなかった。
「ねえ、空港までの送迎、どうするの?」
由美のぶっきらぼうな問いかけに、浩一は手を止めた。
「チャーター便を予約しているんだけど、なんだか空席が多いみたいでね。少し不安なんだ。」
「ふうん。まあ、どうにかなるんでしょ。」
由美はそれだけ言うと、また郵便物の山に向き直った。政治への無関心は、浩一の周りにも、そしてこの国全体にも、静かに、しかし確実に蔓延していた。
選挙当日。浩一は、空港へ向かうために、予約したチャーター便のカウンターにいた。すでに搭乗手続きが始まっているはずなのに、ロビーは閑散としている。受付の係員も、どこか上の空だ。そんな中、ふと視線を感じて顔を上げると、一人の男がこちらを見ていた。痩せた体に、くたびれたスーツ。その目は、底知れぬ闇を湛えているようだった。
男はゆっくりと浩一に近づいてきた。
「海外へ?」
突然の問いかけに、浩一は戸惑いながらも頷いた。
「投票には、行かれないんですね。」
「…まあ、そういうことです。」
「それは、残念。ですが、投票に行かない人間には、特別な恩恵があるんですよ。」
男の言葉は、まるで何かの暗号のようだった。恩恵? 投票に行かないことへの? 浩一は眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「ふっ。そのままの意味ですよ。投票という、重たい責任を放棄した者だけが、新たな扉を開ける資格を得る。私と共に来ませんか? あなたのような、本来なら社会を動かすはずの人間が、その無力感に苛まれているのは、見ていて滑稽ですから。」
男は、浩一の無力感を正確に突いてきた。国際機関への転職が決まり、大きな期待を抱いて海外へ赴く。しかし、この国の政治への関心の低さ、そして自身の力ではどうにもならないという諦めが、常に彼の中にあった。
「取引、ですか?」
「取引、と呼ぶならそうでしょう。棄権した者だけが利用できる特別待遇の飛行機。その権利と引き換えに、ある『情報』を提供しましょう。選挙結果を左右する、誰にも知られていない『裏情報』です。」
男の言葉は、浩一の心をかき乱した。信じがたい話だった。しかし、その不気味な提案に、抗いがたい興味を覚えてしまった。
期日前投票はせず、浩一は自宅で男からの連絡を待った。妻は、浩一の様子に気づいていたようだったが、何も言わなかった。夜も更けた頃、携帯電話が鳴った。
「指定された場所へ来てください。あなたの選択が、すべてを決定します。」
指定された場所は、空港の片隅にある、普段は使われることのない古い格納庫だった。重い鉄扉が開かれると、そこには、夜闇に紛れて停められた、流線型の巨大な飛行機があった。まるで、この世のものではないような、異様な存在感を放っている。
「これが、投票に行かない者たちのための飛行機、というわけか…」
男は、静かに頷いた。
「これは、単なる移動手段ではありません。この国から、ある『目的』のために旅立つ者たちのための、特別な乗り物です。」
男は、浩一の目をまっすぐに見つめ、冷徹に告げた。
「この飛行機は、投票という市民の義務から逃れた者たちを、社会の『選別』から外すためのシステムの一部なのです。多くの人々が、『無関心』という名の投票券を棄権し、自らこの『選別』に身を投じている。彼らは、より『効率的』な社会へと移送されるのです。」
浩一は、言葉を失った。自身の無力感、そしてこの社会の歪みが、あまりにも鮮烈に突きつけられた。多くの人々が、自らの意思で、あるいは無意識のうちに、この「選別」を選んでいる。そして、その結果が、この巨大な、静かに佇む飛行機なのだ。
「さあ、あなたはどうしますか?」
男の声は、もはや問いかけではなく、宣告のように響いた。
飛行機は、静かにエンジン音を響かせ、滑走路へと向かい始めた。浩一は、その場に立ち尽くすしかなかった。民主主義のシステムが、「無関心」によって皮肉にも形骸化し、人々が自ら「選別」される道を選んでいる。その冷徹な現実を、彼はただ、見つめ続けるしかなかった。