白蛇はエスカレーターで隣家へ
古い洋館が立ち並ぶ、郊外の一角。私の家と、隼人の家。二つの家は、まるで運命に引き裂かれた恋人たちのように、隣り合っていた。そして、かつて二つの家を繋いでいた、今は錆びついた鉄骨だけの、古びたエスカレーター。あれは、私たち二人の関係そのものだった。幼い頃からずっと、隼人だけを想い続けてきた。彼の穏やかな笑顔、時折見せる強い意志、そして、私だけに向けてくれる優しい眼差し。それら全てが、私の世界だった。
しかし、その世界は、ある日突然、音を立てて崩れ始めた。隼人の隣に、一条葵という女が越してきたのだ。艶やかな黒髪、蠱惑的な瞳、そして、人を惹きつけてやまない不思議な魅力。彼女は、まるで妖しい花のように、隼人の周りを漂い始めた。
「玲奈、最近、隼人が変わったのよ」
友人の言葉に、私の心臓は冷たい氷に締め付けられた。隼人の足取りが、次第に葵の家へと向かっていく。二人の距離は、急速に縮まっていった。まるで、磁石のように引き寄せられるかのように。
「隼人、あなた、私から離れられないでしょう?」
葵の声が、私の耳元で囁く。彼女は、私の目の前で、隼人を誘惑するかのような仕草を繰り返した。その度に、私の心は激しい嫉妬と憎悪に焼かれ、叫び出しそうになった。
「あいつは、ただの女じゃない…!」
そんな疑念が、私の胸をよぎる。葵は、人間ではない。そう、伝説に語られる「白蛇」の化身なのだと。人々の心を惑わし、破滅へと導く、妖しい存在。
憎い。許せない。隼人を、私のものだと、疑う余地もなく信じていたのに。なのに、あいつは、私の隼人を奪おうとしている。
守りたい。隼人を、あの女の魔の手から。そして、何よりも、もう一度、あの頃のように、私だけを見てほしい。
決めた。あいつと、対決する。
錆びついたエスカレーターの階段を、私は一歩、また一歩と踏みしめる。軋む鉄骨の音が、私の決意を、さらに固くしていく。葵の家へと続く、この道。かつては、二人の家を繋ぐ、希望の架け橋だった。今は、私と、あの女の、最後の戦いの舞台。
「葵!」
私は、叫んだ。古びたドアを開け、彼女の部屋へと踏み込む。そこにいたのは、悠然とソファに座る葵と、その隣で戸惑った表情を浮かべる隼人。
「隼人! 私を見て! 私だけを見て!」
私の声は、感情に震えていた。隼人への愛、葵への憎悪、全てが渾然一体となって、迸り出る。
「あら、玲奈。まだそんなことを言っているの?」
葵は、嘲るように微笑む。その瞳の奥に、妖しい光が宿る。
「隼人は、もうあなたのものじゃないのよ」
彼女の言葉と共に、部屋の空気が一変する。甘く、それでいて危険な香りが漂い、私の意識を霞ませようとする。
「ふざけるな!」
私は、葵に向かって駆け寄る。隼人を守らなければ。このままでは、隼人が、あの女の餌食になってしまう。
「私は、隼人のものだ!」
葵の声が、響き渡る。その瞬間、彼女の姿が、ぼやけ、揺らめく。白く、長い、蛇のような影が、彼女の背後にちらつく。
「葵…?」
隼人が、怯えた声で呟く。
「そうよ、隼人。私は、白蛇よ」
葵が、挑発するように笑う。その声は、もはや人間の声ではなかった。甘く、冷たく、それでいて、抗いがたい魅力を放っていた。
「嫌だ! 隼人は、私のものだ!」
私は、隼人の腕を掴む。しかし、葵の妖力が、私の全身を包み込む。まるで、粘りつくような、重い空気。
「玲奈、やめろ!」
隼人が、私を庇うように葵の前に立つ。その瞳は、私と葵の間で、激しく揺れ動いていた。
「隼人、私を選んで!」
葵が、隼人の首筋に顔を寄せる。その妖しい美しさに、隼人の表情が歪む。
「もう、我慢できない!」
私の内側で、何かが弾けた。隼人への、このどうしようもない愛。葵への、この燃え盛るような憎悪。全てが、一点に集中し、爆発しようとしていた。
「隼人! あなたは、私のものよ!」
私は、隼人を強く抱きしめる。そして、葵に向かって叫ぶ。
「あなたなんか、絶対に許さない!」
その言葉と共に、私の全身に、凄まじい力が漲る。それは、愛の力か、それとも、破滅への衝動か。私は、葵を道連れにする覚悟を決めた。
エスカレーターの階段を、私は隼人を抱きしめたまま、駆け下りる。葵が、追いかけてくる。彼女の背後には、巨大な白蛇の影が、蠢いていた。
「玲奈! 待て!」
隼人の声が、虚しく響く。
私の激情が、エスカレーターの老朽化した鉄骨を揺さぶる。軋み、悲鳴を上げる。そして、次の瞬間、凄まじい音と共に、エスカレーターは崩落した。
愛と憎しみ、そして破滅。その全てが、奈落へと消えていく。
隼人の温もりだけが、私の全身を包み込んでいた。葵の、冷たい気配も、すぐそばに感じられた。
崩れ落ちるエスカレーター。
隼人を抱きしめる腕に、力を込める。
「隼人…」
私の瞳から、熱いものが溢れ出す。それは、涙か、それとも、情熱の奔流か。
「葵…!」
隼人の声が、遠くで聞こえる。
私たちは、三者三様の感情を抱えながら、暗闇へと落ちていく。激しい愛憎の結末に、ただ、静かに身を任せるしかなかった。その先に待つのは、破滅か、それとも、新たな始まりか。それは、誰にも分からない。