暁の記憶泥棒
腐植土と水の匂いが混じり合った、濃い湿気が肌を撫でる。夜明け前の湿地帯は、深い霧に閉ざされていた。足元でぬかるみが鈍い音を立て、現実感だけを奇妙に際立たせる。
風景写真家のカイは、首から下げたカメラの重みを感じながら、ただ立ち尽くしていた。ここ最近、何も撮れずにいる。ファインダーを覗いても、かつて心を震わせた光は色褪せて見え、シャッターを押す指は意思を失っていた。
水面が、鏡のように歪んだ空を映している。その揺らぎを見つめていると、不意に胸が締め付けられた。強い既視感。そして、根源的な喪失感にも似た不安が、霧のように心を覆っていく。
「ここに、何かを置き忘れた気がする」
独り言は、湿った空気に溶けて消えた。
その時、霧の中から音もなく人影が姿を現した。年齢不詳の、どこか浮世離れした青年。カイは息を呑んだ。気配を全く感じなかったからだ。
「探しているのか。お前が失くしたものを」
青年は、心を見透かすような鋭い目でカイを射抜き、言った。
「……誰だ?」
「アカツキ。記憶を盗む者、とでも名乗っておこうか」
アカツキと名乗る男は、詩を詠むように言葉を紡ぐ。
「お前の存在を証明する最も価値ある記憶を差し出せ。さもなくば、お前は空っぽのまま、やがて霧に溶けて消えるだけだ」
「何を馬鹿な……」
カイは抵抗しようとしたが、アカツキの言葉は彼の防御をたやすくすり抜けた。
「五歳の夏、縁日で迷子になった時の心細さを覚えているか。母親の赤い浴衣の裾を探し続けた、あの夕暮れを」
忘れていたはずの光景が、脳裏に鮮やかに蘇る。カイは言葉を失った。
「誰もが何かを忘れ、何かで上書きして生きている。忘却は自己防衛だ。だがお前の忘却は違う。それはお前自身を蝕む病だ。記憶とはお前自身だ。それを失うことは、お前の一部が死ぬことと同義だ」
アカツキは幻覚ではない。カイは混乱の底で、その事実を悟り始めていた。この男は、自分の最も深い場所を知っている。
「やめろ……」
「まだだ。お前が本当に忘れたかったのは、そんな些細なことではない」
アカツキは一歩踏み出し、抵抗する間もなくカイの額に冷たい指を触れた。
「さあ、思い出せ。お前がこの場所に捨てた、絶望の欠片を」
瞬間、暴力的な奔流がカイの脳を焼いた。
激しい水音。闇を切り裂くヘッドライト。甲高い金属音と、ガラスの砕ける音。そして、愛する人の名を絶叫する、自分の声。
――やめてくれ!
水面に叩きつけられ、沈んでいく儚い影。伸ばした手は空を掻き、何も掴めなかったあの日の絶望。
「これは強奪ではない。返還だ。お前のものをお前に返す」
アカツキの声が、遠くで響く。無理やりこじ開けられた記憶の奔流は、激しい頭痛と吐き気を伴ってカイを襲った。彼は膝から崩れ落ち、ぬかるんだ地面に手をついた。悲しみと怒り、そして、脳裏に一瞬だけ蘇った彼女の笑顔への微かな安堵が、めちゃくちゃに混ざり合って涙となって溢れ出す。ああ、そうか。俺は、忘れていたんじゃない。殺していたんだ。この記憶を。
どれほどの時間が経っただろうか。顔を上げると、東の空が白み始めていた。昇り始めた朝日が霧を払い、湿地帯の輪郭を露わにしていく。アカツキの姿は、まるで初めから存在しなかったかのように消えていた。
カイは呆然と立ち尽くす。悲しみは深く胸に突き刺さったままだ。しかし、空っぽだった心には、確かな痛みが戻っていた。それは、自分がまだ生きているという証だった。
彼は静かに冷たくなったカメラを構えた。その表情には、絶望を通り抜けた者の、静かな覚悟が宿っていた。ファインダー越しに、かつて愛する人が立っていたであろう水辺の、朝日にきらめく光景を捉える。まだシャッターは押せない。だが、彼の指は、確かにそこに在った。